日本一周第3回「白い雲のように」 |
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第8日「紺碧の空〜兵庫県・大阪府〜」 | |||
2006年8月12日(土) |
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甲子園もいよいよ、早実の2回戦を迎えることとなった。 試合は午後だったので、午前中、明石まで足を伸ばした。 |
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◆明石城(HP) | |||
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明石駅から明石城が見えた。 明石城は明石藩の居城。1619(元和5)年、小笠原忠真(1596〜1667)によって建築が始まった。 天守閣は築かれず、4基の櫓が建てられた。そのうち巽櫓と坤櫓の2つが現存している。 |
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巽櫓も坤櫓も国の重要文化財に指定されている。 坤櫓は最大規模の櫓で、天守閣の代わりを務めたとされるが、もともとは京都の伏見城から移築されたものであったらしい。 |
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明石は子午線が走り、日本の時間の基準となっているが、それと関係あるのか、明石城の中には日時計が設置されていた。 |
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◆柿本神社(HP) | |||
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明石城から東に行ったところに、柿本神社がある。柿本人麻呂を祭神とする神社だ。 人麻呂には、 天離る夷の長通ゆ恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ といった明石で詠まれた歌がある。1620(元和6)年、小笠原忠真によって勧請された。 学問やなどに加え、「火止まる(人麻呂)」からの連想から、火災予防のご利益があるそうだ。 |
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境内には延命長寿の信仰を集める「亀の水(亀齢水)」がある。1699(元禄12)年に手水舎として設けられた湧水である。 |
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八房の梅は赤穂浪士の1人、間瀬久太夫(1641〜1703)が主君の仇討ちを祈って植えたものらしく、1つの花に8つの実を結ぶのが名の由来である。 |
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明石には松尾芭蕉(1644〜94)も訪れている。柿本神社の近くには松尾芭蕉の句碑も建っていた。 蛸壺や はかなき夢を 夏の月 |
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◆月照寺(HP) | |||
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柿本神社の隣に人麿山月照寺があった。 812(弘仁2)年、弘法大師空海(774〜835)によって、湖南山餘鵜楊柳寺として創建された。その後887(仁和3)年、覚証によって「月照寺」と改められた。 1621(元和7)年、小笠原忠真が明石城を築城した際に、この地に遷された。 |
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月照寺の山門は、1618(元和4)年、忠真が徳川秀忠(1579〜1632)から伏見城薬医門を拝領し、明石城の切手門としたもの。1873(明治6)年に月照寺の山門として移築された。 |
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◆明石天文科学館(HP) | |||
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柿本神社・月照寺の南には明石市立天文科学館がある。 明石は、東経135度に当たり日本標準子午線が走り、日本の標準時間となっている。 柿本神社の近くにある子午線標準柱は通称「トンボの標識」。1928(昭和3)年の測定の結果、子午線が月照寺の境内を通過することが分かって建てられた。当初は月照寺の正面に建てられたそうである。しかし、1951 (昭和26)年に再観測したところ、東経135度子午線が11.1m東を通過することが判明。1956年に現在の位置に移された。 てっぺんにトンボが乗っているのは、かつて日本が「あきつしま」と呼ばれていたことに由来する。「あきつ」とはトンボのことである。 |
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天文科学館は博物館となっていて、天文に関する展示がある。プラネタリウムが有名だというので入ってみた。 ところが、始まったとたんに星空が消えてしまう。どうしたのかと思ったら、星空を盗んだ悪人から、星を取り戻す「軌道戦隊シゴセンジャー」が登場するアトラクションが始まった。 個人的には面白かったのだが、プラネタリウムを楽しみにしていたと思われる観客が白けて帰ってしまったのが印象的だった。 |
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天文科学館の入口付近に、「松平丹波守康直墓」があった。松平康直(1617〜34)は明石藩2代藩主。初代藩主・小笠原忠真が小倉藩に転封になった後、1633(寛永10)年17歳の時に藩主として信濃松本藩から移ってきた。しかし翌年18歳で没している。 康直の墓の左側にある碑には「一バンボシミツケタ」と書かれている。どういった由来かはわからないが、文部大臣時代の海部俊樹(1931〜/後の首相)が揮毫している。 |
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明石を去る前に、明石名物“卵焼き”を食べることにした。 たこ焼きをだし汁につけて食べるもの。熱々の卵が口の中でとろけて…う〜ん美味い。ビールを飲みたかったが、この後甲子園で飲むだろうからやめておいた。 |
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◆甲子園球場(HP) | |||
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6日ぶりの甲子園。我が母校・早稲田実業の対戦相手は、地元大阪代表の大阪桐蔭高校。 |
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この日は土曜日。また、注目のカードであるからだろうか。すでに長蛇の列ができており、あっという間にチケットが売り切れてしまった。 僕はちゃっかり買えたのは言うまでも無い。 |
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今回の試合は、高校時代の同級生夫婦、それから早実出身でもなんでもない大学の後輩(♀)の4名で観戦した。 早実はこの年(2006年)の春の選抜にも東京代表として出場していたが、準々決勝で優勝した横浜高校に3−13と惨敗していた。 早実の2回戦の相手はその横浜と大阪桐蔭の勝者である。かなりの注目カードで、新聞には「事実上の決勝戦」などとも書かれていた。とりわけ注目が、大阪桐蔭の2年生スラッガー中田翔(1989〜/現北海道日本ハム)。試合の方は中田のホームランもあって大阪桐蔭が11−6で横浜を下した。 そんな大阪桐蔭が相手であるから、これは相当に厳しい戦いになるであろう。 |
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しかし、そんな大阪桐蔭も、本来ならエースである中田翔が肩を痛めて投げられない。一方の早実は、絶対的なエース斎藤佑樹(3年/1988〜/現・北海道日本ハム)を擁する。勝機は十分ある。 |
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満員御礼の中試合開始。早実は5番船橋悠(3年)のタイムリーで先制! その裏いきなり2死2塁で中田登場も、斎藤は三振に切って取った。 早実は3回表にもキャプテン後藤貴司(3年)のスリーランなどで4点を追加し、5−0と大量リード。しかし、大阪桐蔭も3回裏に小杉太郎(3年)のツーランで2点を返し、乱打戦になるかと思わせた。 4回裏、先頭の中田との2度目の対決も、斎藤が空振り三振を奪う。6回裏の対決はセンターフライ。中田は斎藤の前に手も足も出ない。 一方の早実打線は13安打の猛攻で計11得点。 8回裏、早実9−2の場面で、4度目の中田を迎えた。7点差で早実の勝利は揺るぎない。大阪桐蔭ファンとしては、中田の一発で一矢報いて欲しいところ。 緊張が走る。 斎藤の初球はこの日最速の148キロ。終盤にして球速の衰えない斎藤恐るべし。最後は空振り三振。結局中田は4−0、3三振に終わった。中田が倒れると、大阪桐蔭側のスタンドから次々と観客が帰って行くのが見えた。 |
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早実は11−2の大差で大阪桐蔭を下し、3回戦に進出を決めた。斎藤佑樹は12奪三振6安打2失点の完投勝利。まったく、誰だ、横浜ー大阪桐蔭の試合を事実上の決勝と言った奴。謝罪しろ(笑) |
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試合後は仲間と一緒に梅田に出て、当然ながら祝勝会。美味しいビールをたらふく飲んだ。 優勝候補の大阪桐蔭を倒したことで、早実が一躍注目を浴びるようになり、斎藤佑樹も青いハンカチで汗をぬぐう姿がブームを呼ぶようになることを、僕たちはこの時まだ知らなかった。 |
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ラブユー東京〜東京都〜 | |||
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