日本一周第3回「白い雲のように」 |
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第5日「草の想い〜広島県〜」 | |||
2006年8月 9日(水) |
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◆広島城(HP) | |||
昨日から今日にかけて東日本には台風が上陸したらしいが、ここ山陽はいたって平穏。天気もよく、絶好の観光日和だった。 広島には何度も来ていたが、実は広島城に行ったことが無い。そこで、広島を出発する前に観に出かけた。 |
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広島城は安芸広島藩のお膝元。毛利輝元(1553〜1625)によって築かれた。輝元は関ヶ原の戦いで敗れたため、毛利氏は九州の長州へ転封となり、代わって福島正則(1561〜1624)が入封。1619年には浅野長晟(1586〜1632)が藩主となり、浅野家が幕末まで12代広島を支配した。なお、初代播州赤穂藩主・浅野長直(1610〜72) は長晟の弟・浅野長重(1588〜1632)の子で、その孫の内匠頭長矩(1667〜1701)が「忠臣蔵」の主要人物である。「忠臣蔵」の物語でも広島・浅野家は浅野本家として登場する。
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広島城の別名は「鯉城(りじょう)」。ここから広島東洋カープの名前の由来となった。広島城のあった地がかつて「己斐浦」と呼ばれていたからとも、堀にたくさん鯉がいたからとも言われている。 廃藩置県を経て天守閣や二の丸の櫓などが残っていたため、戦前には国宝に指定されていた。しかし、1945(昭和20)年8月15日の原子爆弾によってすべてが壊滅してしまった。 太鼓櫓もそんなうちの一つで、1989年に復元されている。 |
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太鼓櫓と並んだ多聞櫓、平櫓は現在見学が可能である。 |
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広島城の遺構は現存していないが、広島城の石垣は残っている。これもおそらくは原爆を受けているのだろう。 |
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広島に原爆が投下された理由の一つに、広島大本営があったことがある。もちろんその大本営も原爆によってすべての建物が倒壊。礎石のみが残る。 |
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広島城の天守閣は1951年に広島国体に合わせて再建された。外観は初代の天守閣を忠実に再現したコンクリート製。内部は博物館となっている。 |
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広島城内には元総理大臣・池田勇人(1899〜1965)の像が建っている。広島出身の首相としては加藤友三郎(1861〜1923)に続く2人目。後に宮澤喜一(1919〜2007) をも輩出している。
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城内にある広島護国神社。戊辰戦争以後、第二次世界大戦にまで至る安芸の国出身の英霊、及び原子爆弾で犠牲となった動員学徒、女子挺身隊等計9万2000柱の霊を祭神として祀る。 |
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広島護国神社は1868(明治元)年、水草霊社として創建された。その後、1934(昭和9)年に広島市民球場の近くに移転され、広島護国神社と改称。1985年の原爆により、大鳥居を除いて全壊した。現在地に移ってきたのは1956(昭和31)年のことである。 広島カープの球団関係者が必勝祈願に訪れる場所としても知られている。 |
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二の丸表御門もやはり原爆によって焼失。1989(平成元)年の広島城築城400周年を記念して復元が開始され、1991(平成3)年に完成している。 この門をくぐり、広島城を後にした。 さらば広島。 |
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次の目的地は尾道。瀬戸内の小京都と呼ばれる港町。そして、文学、映画の町である。 |
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尾道を舞台にした文学作品としては志賀直哉(1883〜1971)の「暗夜行路」や、林芙美子(1903〜51)の「放浪記」がある。 尾道駅から海の方へ歩いていくと、商店街の入口に林芙美子の像が建っていた。 海が見えた 海が見える 五年振りに見る 尾道の海は なつかしい 「放浪記」の一節が刻まれている。林芙美子はここ尾道で幼少時代を過ごしている。 |
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まずは昼食に尾道ラーメンを食べた。 シンプルな味の醤油とんこつラーメンであった。 |
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◆古寺めぐり | |||
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尾道は坂の町でもある。細い坂道が入り組んでいてるばかりか、石段と石畳が続く。間違いなく郵便配達泣かせ。いや、急病人や火事の時はどうするのか心配にな ってくる。 そんな坂道の間に様々な寺院や文学碑などが建つ。 |
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「古寺めぐり」はそんな尾道の町に点在する25のお寺を観て歩くモデルコースで、町のあちこちに道しるべが建っている。それに従って歩いてみた。 |
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「古寺めぐり」の最初は、持光寺。立派な石造りの山門が目を引く。 浄土宗の寺院で、所蔵する「絹本著色普賢延命像」は国宝に指定されている。 |
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次いで光明寺(HP)へ。ここも浄土宗の寺院で、承和年間(834〜47)に慈覚大師円仁(794〜864)によって創建された。もともと天台宗の寺であったが、鎌倉時代末期の1336(建武3)年に道宗雙救(どうそうそうきゅう)によって再建され、浄土宗の寺院となった。 |
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ここには12代横綱・陣幕久五郎(1829〜1903)夫妻の墓と、手形の碑がある。 |
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境内にある「蟠龍の松」は樹齢400年。市の天然記念物にも指定されている。 |
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宝土寺は、融海が貞和年間(1345〜49)に開山したといわれる浄土宗の寺院。 |
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境内にある吉備津彦神社は、通称「一宮(いっきゅう)さん」。毎年11月1日〜3日に開催される「尾道ベッチャー祭」の祭神でもある。 |
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天寧寺は曹洞宗の寺院。1367(貞治6)年に普明国師の開山。当初は臨済宗であったが、元禄年間(1688〜1703)に再興された際に曹洞宗となった。 |
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有名なのが三重塔である海雲塔。1377(嘉慶2)年にもともとは五重塔として建てられたが、1692(元禄5)年に上層部が損壊。三重塔に改装された。現在、国の重要文化財に指定されている。 |
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◆おのみち文学の館 | |||
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尾道は数多くの文学者を生んだ町である。そんな尾道にまつわる文学者たちの足跡を展示したものが「おのみち文学の館」である。 |
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そもそもはこの場所には志賀直哉の旧居があった。尾道市は志賀の旧居を買い取ると、その南側に尾道文学公園を整備し、「文学記念室」を公開した。 |
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志賀直哉は1912年から1915年にかけて尾道に住み、代表作「暗夜行路」の構想を立てている。 |
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その後、志賀直哉旧居にも関わらず、志賀以外の展示があるのがおかしいとの批判もあり、新たに「文学記念館」を整備することになったとのことである。 |
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文学記念館はもともとは地元企業役員の福井家の邸宅であった。現在は林芙美子を始め、高垣眸(1898〜1983)、横山美智子(1895〜1986)、行友李風(1877〜1959)らに関する展示がある。 |
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林芙美子の代表作「放浪記」の碑が建つ。また、彼女の書斎が再現されている。 |
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「怪傑黒頭巾」は、尾道生まれの高垣眸(たかがきひとみ)の代表作。高垣は戦前から戦後にかけて大衆小説・少年小説を発表。「怪傑黒頭巾」は何度も映画化されており、特に大友柳太朗(1912〜85)主演のシリーズ(1953〜60年東映)は人気を博した。 |
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おのみち文学の館には歌人・中村憲吉(1889〜1934)に関する展示が多い。中村は広島県の三次に生まれ、晩年を尾道で過ごし、この地で亡くなっている。 |
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中村の旧居が保存され公開されている。中村は、1933(昭和8)年12月25日にこの地を訪れ、1934年5月5日に亡くなるまでを過ごした。斎藤茂吉(1882〜1953)らが見舞いに訪れたそうだ。 |
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ここからの風景は絶景で、例えば平山郁夫(1930〜2009)もこの地を描いているが、それはちょうど、宝土寺の海雲塔を見下ろす光景である。 |
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◆おのみち映画資料館 | |||
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尾道は多くの映画の舞台にもなった。例えば、小津安二郎(1903〜63)の「東京物語」(1953年松竹)の老夫婦(笠智衆・東山千栄子)が住む場所である。また、尾道出身の大林宣彦(1938〜)も、「転校生」(1982年)「時をかける少女」(1983年)「さびしんぼう」(1985年)の“尾道三部作”、「ふたり」(1991年)「あした」(1995年)「あの、夏の日」(1999年)の“新尾道三部作”などの作品を撮っている。 |
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そんな尾道を舞台にした映画に関する資料を展示しているのが「おのみち映画資料館」である。 「東京物語」や新藤兼人(1912〜2012)監督の「裸の島」(1960年近代映画協会)といった作品の写真や、ポスターなどが展示されているが、なぜか大林作品のものはない。尾道市内には大林作品のロケ地をめぐる観光コースなどもあるぐらいで、ほとんどの人(僕を含めて)は大林作品が目当てではないかと思うのだが…。おそらく大林の許可が得られなかったのではなかろうか。 |
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◆おのみち歴史博物館 |
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おのみち歴史博物館は主に中世の尾道に関する歴史資料や、尾道にゆかりの芸術家の作品を収蔵する。 博物館の建物は1923(大正12)年に尾道銀行本店として建てられたもので、それ自体が尾道市指定の重要文化財となっている。 |
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◆喫茶芙美子(林芙美子旧宅) | |||
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古寺はまだまだ残っていたのだが、早めに切り上げた。 林芙美子にちなんだ「喫茶 芙美子」へ。ここには林芙美子の旧居が保存されている。 |
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客は自由に見学できるそうなので、「おのみち麦酒」を注文した。割としっかりした味わいであった。 |
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中庭に出ると、なんと古い住居がそのまま保存されている。 芙美子は14歳だった1917(大正6)年、この家の2階へ転居。尾道市立第二尋常小学区を卒業し、尾道私立高等女学校へ入学した後、1918年9月までをここで過ごしている。 |
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2階には芙美子の部屋が再現されている。 しばし芙美子を思い、この部屋で過ごした。 |
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この日の観光を終え、夕食の時間となった。 尾道は“おこぜ”が有名だというので、おこぜ料理のある店へ入った。 |
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しゃこの酢物とたこボタンつくり |
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まずはしゃこの酢物とたこボタンつくりで冷酒を一杯。 |
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メインディッシュはおこぜの唐揚。唐揚げといっても実際は天麩羅だったが。おこぜは白身魚だが、案外濃厚な味で、食べ応えがある。また、骨も骨せんべいみたいに食べることができた。 |
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