日本一周第2回「旅人よ」 |
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6日目「なのにあなたは京都へ行くの〜 奈良県・京都府・滋賀県〜」 | |||
2006年7月20日(木) |
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昨日は法隆寺、興福寺、東大寺、春日大社を訪ねたが、奈良の世界遺産はまだまだ他にもある。奈良名物柿の葉寿司を朝食に買って電車に乗った。 |
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◆薬師寺(HP) | |||
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西ノ京には世界遺産が2つある。その一つ薬師寺をまず訪ねた。 薬師寺は天武天皇(631〜86)の発願により680(天武9)年に造営が開始され、その孫の文武天皇(683〜707)の時代に完成した。その後、710(和銅3)年の平城京遷都に際して、この地へ移って来た。 |
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薬師寺もまた戦乱に弄ばれた。特に戦国時代の1528(享禄元)年の戦火で、伽藍の大半が焼失している。 |
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本堂に当たる金堂も1528年に焼けている。その後、豊臣秀吉(1537〜98)が再建に取り組むが、大阪夏の陣(1615年)で豊臣家が滅びたことで中断。金堂が再建されたのはそれから300年以上経った1967(昭和42)年のことであった。 |
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薬師寺の伽藍のうち唯一、奈良時代から現存しているのが東塔(国宝)。仏舎利を収めた塔である。各階に裳階(もこし)がついているため六重塔に見えるが、実際には三重塔である。 |
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一方、西塔は1981(昭和56)年の再建。歴史の風月に耐えた東塔の落ち着きに比べて、若々しく色鮮やかなのが印象的だ。 |
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薬師寺の伽藍で国宝に指定されているのは東塔の他にもう一つ東院堂がある。養老年間(717〜24)に吉備内親王(686〜729)が母・元明天皇(661〜721)の冥福を祈り建立したもの。973(天禄4)年の火災で焼失し、1285(弘安8)年に再建された。 |
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薬師寺の伽藍で一番最近再建されたのが大講堂で、2003年のこと。正面41メートル、奥行き20メートル、高さ17メートルの、薬師寺中最大の伽藍である。 薬師寺にはこの他、1991年に建てられた玄奘三蔵院伽藍がある。「西遊記」でお馴染みの玄奘三蔵法師(602〜64)を祀ったものだが、普段は一般公開されていないらしく、今回見ることはかなわなかった。薬師寺は法相宗の大本山であるが、玄奘は法相宗の始祖であり、玄奘三蔵院伽藍には玄奘の遺骨を真身舎利として奉安している。 |
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◆唐招提寺(HP) | |||
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もう一つの世界文化遺産・唐招提寺は、薬師寺から歩いてほんの数分である。 唐招提寺の創立者は唐から日本に渡ってきた鑑真和上(688〜763)。戒律を日本に伝えるために、渡日を試みること5回。6度目となった753(天平勝宝5)年に日本にたどり着くが、その時までに両目を失明していた。 その鑑真が、759(天平宝字3)年、天武天皇の皇子・新田部親王(〜735)の旧宅を賜り、唐招提寺が創建された。鑑真はこの寺に晩年を過ごし、763(天平宝字7)年入寂。井上靖(1907〜91)の「天平の甍」に描かれた通りである。 唐招提寺の入り口である南大門は、1960(昭和35)年の再建。天平様式で建てられている。 |
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唐招提寺の本堂である金堂は、奈良時代に建てられた寺院金堂としては、現存唯一のものだという。当然国宝にも指定されている。唐招提寺のパンフレットには「堂々雄偉」であると書かれているのだが、この時はちょうど解体修理の最中(2000年から2009年にかけて)。残念ながらその姿を見ることはできなかった。 |
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金堂が見られないとなると、唐招提寺で一番目を引くのは講堂(国宝)であろう。760(天平宝字4)年頃、平城宮の改築に伴って、東朝集殿を移築・改造したもの。平城宮の遺構としては唯一現存するものということで、大変貴重なものである。 |
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唯一の重層建築である鼓楼(国宝)は鑑真が唐より持ってきた仏舎利を収めた舎利殿で、1240(仁治元)年の建設。 |
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宝蔵と経堂は小さいが共に国宝。奈良時代の校倉造倉庫である。このうち経蔵は、唐招提寺の創建以前ここにあった新田部親王邸の米倉を改造したものとされており、唐招提寺で最古の建物である。 |
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今回、唐招提寺の金堂が見られなかったのは大変残念であった。でもまあいい。また、唐招提寺を訪ねる口実ができたと思えば…。 |
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奈良から京都へ入ってきた。京都は今まで何度も来ている。そこで、今まで行ったことの無い場所…そう考えて、嵐山へとやって来た。 |
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嵐山に着く頃には雨もあがっていた。「名物・湯豆腐」との文字を発見。名物と聞くと食べたくなるのが人情。7月の下旬ではあったが、この日はだいぶ涼しかったので問題なかった。 |
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◆天龍寺(HP) | |||
天龍寺 |
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京福線嵐山駅を降りると、駅の目の前に天龍寺がある。「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に指定されている。 1339(歴応2)年。、足利尊氏(1305〜58)が吉野で亡くなった後醍醐天皇(1288〜1339)の菩提を弔うために、夢窓疎石(1275〜1351)を開山として創建した。もともとこの地には嵯峨天皇(786〜842)の皇后・橘嘉智子(786〜850)が開いた壇林寺があり、後に後嵯峨天皇(1220〜72)の仙洞御所(退位した天皇の御所)である「亀山殿」が営まれた。亀山とは、天龍寺の西にある小倉山が亀の形に似ていることから呼ばれた名前で、天龍寺の山号も「聖亀山」となっている。 夢窓は、寺院建設の資金調達のため、「天龍寺船」による中国・元とも貿易を推し進めた。 天龍寺は応仁の乱(1468年)や蛤御門の変(1864年)など計8回の火災にあい、創建当時の伽藍はすべて焼失。現在の伽藍はほとんどが明治時代に再建されたものである。 |
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天龍寺には重要文化財の本尊・釈迦如来坐像などがあるが、建物に関して言えば国宝・重文級のものは一つも無い。にも関わらず、世界文化遺産に指定されている、なぜだろうか。 |
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天龍寺の見どころは、建物ではない。庭園なのである。その証拠に拝観料は、本堂が100円に対し、庭園は500円である。 曹源池をめぐる回遊式の庭園で、開祖・夢窓によって作られた。 |
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この時はちょうど7月で、緑がまぶしかった。きっと四季折々の顔が楽しめるに違いない。別の季節にぜひまた来たいと思える。 |
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なるほど、天龍寺には国宝級の建造物は無くても、この庭園ゆえに世界文化遺産に指定されたのだろう。なお、この庭園は国の史跡・特別名勝の第1号に指定されている。 |
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天龍寺はそもそも後醍醐天皇の菩提を弔う目的で建てられており、後醍醐天皇の尊像が多宝殿に祀られている。この多宝殿は1934(昭和9)年に建設されている。 |
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◆時雨殿(HP) | |||
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嵐山に来たなら一度行ってみたい場所があった。それは「小倉百人一首殿堂 時雨殿」である。時雨殿は、財団法人小倉百人一首文化財団によって建てられた博物館で、2006年1月に開館したばかりである。百人一首競技かるたの選手を永年続けている僕にとってもなかなか興味深い場所である。 時雨殿は、小倉山の麓にある。小倉山には藤原定家(1162〜1241)の山荘があり、彼の日記「明月記」によると、1236(文暦2)年、定家の息子の妻の父である宇都宮頼綱(寂生/1172〜1250)の依頼で、定家は彼の山荘に飾る色紙に百首の和歌を選んだという。これが後の小倉百人一首の原型となった。 時雨殿がこの地にできたのはそうした次第である。 |
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入り口で入館料(800円)を払うと、「時雨殿なび」という案内ナビゲーターを渡される。これを使って館内でいろいろ遊べるようだ。 メインルームに入ると、床には京都の航空写真がある。地図の上に立って「時雨殿なび」を操作すると、その場所にちなんだエピソードや名所案内を見ることができる。別に小倉百人一首とは関係ないような気もするが…。 また、壁には百人一首の和歌の描かれたパネルがあり、そこに「時雨なび」を持って近づくと、和歌の朗詠が聞こえてくる。競技かるたをやっていると、和歌の朗詠を聞くのは日常的なことで、係員が盛んに勧めてきたが、正直あまり興味が持てなかった。 |
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気を取り直して、「体感かるた五番勝負」なるゲームに挑戦することにした。手元に百人一首の札のタッチパネルが、正面の画面に歌人を模した対戦相手の映像が登場する。なかなかリアルで面白い、と思ったが、何しろ僕は百人一首競技かるたの四段選手である。パーフェクトで圧勝してしまった。 |
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時雨殿の2階は大広間となっている。120畳もあり、競技かるたの大会の会場になるという予定らしい。確かに広々としていいのだが、すぐ横の廊下をギャラリーが通るという形になっている。また、控室や更衣室も見当たらず、実際の大会の運営には不便ではないだろうかという印象を受けた。実際、その後女流選手権などの大会が時雨殿で開催されているが、あまり好意的な感想は聞かない。 |
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時雨殿は、百人一首の博物館というよりはアミューズメントパークといった趣のものであった。しかしながら、競技かるた選手として、あるいは日本文学を多少なりともかじったものとして、あまり魅力を感じる場所とも言い難い。正直物足りなかった。おそらく、もう来ることはないだろう…。 |
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◆美空ひばり館(HP) | |||
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時雨殿が思いの外つまらなかったので、何か楽しいものを見たいと思った。そういえば、先ほど嵐山の街の中で「美空ひばり館」なるものがあった。きっとおもしろいに違いない。 美空ひばり(1937〜89)と言えば、昭和を代表する歌姫。彼女が52歳の若さで亡くなった時、僕は中学生だった。その前年に彼女が復帰した「不死鳥コンサート」のニュースは覚えていたし、彼女の歌もいくつかは知っていたが、その時まで彼女は過去の歌手という認識しかなった。しかし、死後に放送された特集番組などを見て、彼女のすごさが少しずつわかってきた。その後、映画など大衆文化に興味を持つようになってから、その偉大さを理解することができるようになった。「悲しい酒」「リンゴ追分」「柔」「川の流れのように」など、メロディーが浮かんでくる。 |
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館内に入ると、等身大の美空ひばりブロンズ像が出迎えてくれる。それにしても、なぜ嵐山に美空ひばりなのだろうか。彼女にとって京都は思い出深い場所で、映画出演のため昭和30年代から約8年間、京都岡崎に暮らしていたことがあったということからだそうだ。少々説得力が弱いが、観光客も多い地なので別にそれでもいいかもしれない。 |
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美空ひばりの目黒の自宅のリビングや、コマ劇場での楽屋が再現されていたり、ステージ衣装や小道具の展示、彼女の歌が聞けるコーナーなど、館内は美空ひばりワールドである。美空ひばりの映像を流すホールもある。 |
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改めて美空ひばりにすっかり魅せられてしまった気がする。十分すぎるほど堪能できた。しかし、こんなに楽しい美空ひばり館も、2006年11月で閉館ということであった。非常に残念である(2008年4月に「京都嵐山美空ひばり座」として再オープン) 。 |
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◆壬生寺(HP) |
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この日は午後に滋賀県の西大津に行く用事があったのだが、まだ少し時間があった。そこで、四条大宮へ行き、壬生寺に立ち寄った。 |
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壬生寺は991(正暦2)年、快賢によって創建された。快賢は三井寺の僧侶であったため、壬生寺も当時は小三井寺と呼ばれていた。その後火災で焼失、1259(正元元)年、平政平によって再建された。 |
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壬生寺の境内に「ああ新撰組」の歌碑が建っている。これは三橋美智也(1930〜96)の代表曲でもある。新撰組は1863(文久3)年、ここ壬生の地で結成された。壬生寺には兵法調練所があり、武芸や法術の訓練が行われた。壬生寺が新撰組ゆかりの地であるからこそ、今回僕も訪ねたのである。 |
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壬生寺の東側にある池の中の島は「壬生塚」と呼ばれ、新撰組隊士の墓がある。 局長・近藤勇(1834〜68)の場合は、墓ではなく遺髪塔である。また、胸像が建っている。ちなみに近藤の墓は、菩提寺である三鷹の龍源寺にある。また、会津若松の天寧寺にもあるが、これもやはり遺髪塔であろう(参照)。 |
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他の隊士の墓は、いずれも新撰組がここ壬生で活動していたころに亡くなった隊士の物である。 |
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新撰組局長・芹沢鴨(1827〜63)と、隊士・平山五郎(1829〜63)は、1863(文久3)年に暗殺されている。表向きは倒幕派の仕業ということにされたが、実際は近藤勇一派による粛清であった。 7名の合祀墓に埋葬されているのは、阿比原栄三郎(〜1863)、田中伊織(〜1863)、野口健司(〜1863)、奥沢栄助(〜1864)、安藤早太郎(1821〜64)、新田革左衛門(〜1864)、葛山武八郎(〜1864)。このうち奥沢・安藤・新田の3人は池田屋事件(1864年) が原因で亡くなっている。また、野口、葛山は隊規違反で切腹させられ、阿比原は病死とも暗殺とも言われている。田中は詳細不明の人物だが、局長だった新見錦(1836〜63)の変名だとも言われる。だとすれば、やはり切腹させられていることになる。野口も新見も芹沢派の人物であったことから、共に近藤派による粛清にあったこと になる。 細長い墓は河合耆三郎(1838〜66)のもの。新撰組の勘定方であったが、帳簿のミスを咎められ、切腹している。他の隊士と合祀されていないのは、裕福だった彼の実家が別に墓を建てたからだという。 近藤勇も、後に勤皇派に捕えられ、処刑されている。結局のところ、これらの墓に埋葬された人物は誰一人としてまっとうな死に方をしていない。いかに新撰組の歴史が血塗られたものだったがわかる。 帰りがけに壬生寺の土産物売り場を見たところ、近藤、土方歳三(1835〜69)、沖田総司(1842〜68)といった人気隊士に加え、芹沢のグッズもあった。 |
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壬生塚には新撰組関連の石碑以外にも、「人丸塚」なるものがある。これは、万葉歌人・柿本人麻呂の灰塚と伝えられるもので、現在の物は大正時代に建てられたもの。「人麻呂」が「人丸」となり、「火止まる」につながるということで、火除けの御利益があるらしい。 |
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地蔵菩薩は1649(慶安2)年の作で、「水掛地蔵」と呼ばれている。水を掛けて祈ると、一つ願いがかなうと信じられている。 |
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奈良、京都と来て、最後に滋賀県にやってきた。今日は西大津が最終目的地。西大津では近江神宮へ。近江神宮は、天智天皇(626〜72)にちなんだ神社で、百人一首とも関連の深い場所である。 7月22日(土)・23日(日)、ここで全国かるた高校選手権大会が開催されることになっている。それに併せて、僕も所属している全日本かるた協会調査研究部の部会が開かれることになっていた 。今日と明日、近江神宮では調査研究部会がある。近江神宮に泊るのは、大学生の時以来なので、約10年ぶりではないだろうか。宿坊は、当時とは比べ物にならないほどきれいになっていた。 |
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琵琶湖周航の歌〜滋賀県〜 | |||
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