日本一周第2回「旅人よ」 |
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2日目「デカンショ節〜 兵庫県・京都府〜」 | ||||
2006年7月16日(日) |
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今回、関西を出発地点にしたのはいくつか理由がある。その一つが、百人一首競技かるたの全国かるた丹波篠山大会に出るためである。 丹波篠山大会は、5年に1回行われる大会で、今回で5回目。僕は、10年前の1996年に開催された第3回に出場したことがある。 大会のほうはあっさりと1回戦で負けてしまったので、さっそく観光に繰り出した。 |
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◆諏訪神社 | ||||
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今回の大会の会場となっていた「新たんば荘」のすぐ近くに諏訪神社があったので、まずはそこを見学した。 説明書きによると天平勝宝(749〜758)頃に、信濃国の諏訪大社をこの地に勧請したものとのこと。祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ)、八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)。建御名方と八重事代主は兄弟で、共に大国主命の子。八坂刀売は建御名方の妻である。 |
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◆篠山市立青山歴史村 | ||||
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丹波篠山はかつて篠山藩5万石の城下町として栄えた。初代藩主は松井松平家の松平康重(1568〜1640)。次いで、藤井松平家の松平信吉(1580〜1620)とその息子忠国(1597〜1659)が藩主となる。4代目は形原松平家の松平康信(1600〜82)で、同氏が5代続く。その後、9代目藩主として青山忠朝(1708〜60)が1748(寛延元)年が篠山に入り、青山氏が版籍奉還まで6代110年に渡って君臨することになる。 その青山氏が版籍奉還後に別邸として建てた「桂園舎」が現在、青山歴史村として展示されている。 |
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現在、桂園舎は、篠山藩旧藩士・澤井家にあった長屋門などと共に現在では「青山歴史村」となっている。なお、長屋門(写真2つ上)は、文化年間(1804〜17)の建築で、篠山市の指定建造物になっている。 中庭を取り囲むようになった落ち着いた場所で。ところどころに、歴史的遺物が展示してある。 |
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例えば、石造金櫃(かねびつ)は、土中に埋められ、地下金庫として用いられていたもの。篠山藩の貨幣司(かへいし)が用いていたそうである。 |
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収蔵物の中には、漢学書関係の版木(はんぎ)が約1200枚ほどあるが、これは全国的にもほとんど残存していない珍しいものらしい。それらは、12代藩主・青山忠裕(1768〜1836)の天明年間(1781〜88)に作 られたもの。この版木で、漢学書を印刷して出版し、藩士教育の教科書として使用した。 |
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次の観光地に向かう前に昼食を摂ることにした。「丹波篠山郷土料理 懐」に入り、「丹波弁当」を注文。猪肉の朴葉味噌焼き、黒豆豆腐、山芋たんざく、鯖寿司といった丹波名物が揃って2100円であった。 |
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◆篠山城跡 | ||||
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次は篠山城跡に向かった。 篠山城は、1600(慶長5)年関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を抑える拠点とするために1609(慶長14)年に築いた城である。築城の名手として知られた藤堂高虎(1556〜1630)らによって突貫工事で建設が進められ、大阪冬・夏の陣(1614,15)年の際に大阪城の包囲網として機能する。 |
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篠山城は、明治維新の廃城の際に大半の建物が取り壊されてしまう。唯一残されたのが大書院(おおしょいん)であった。 |
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大書院は1609年の篠山城築城と同時に建設され、篠山藩の公式行事に利用されてきた。明治以降は小学校や公会堂などに使用されていたが、残念なことに1944(昭和19)年1月6日の火災で焼失してしまう。 その後、2000(平成12)年になって、現在あるように復元された。 大書院の中に入って、往時の繁栄ぶりをうかがうことができる。 |
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篠山城には、天守台があるが、天守閣は建築されなかった。徳川幕府がこれ以上堅固な城を築くことを望まなかったからだという。 |
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確かに、現存する石垣を見るだけでも、その城の立派さが伝わってくる。 |
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篠山城の本丸跡地には現在、青山神社が建っている。1882(明治15)年5月創建の神社で、祭神は青山忠俊(1578〜1643)と青山忠裕。忠俊は3大将軍・徳川家光の傅役(養育係)であった。また、忠裕は青山歴史村のところでも紹介したが、篠山藩の学問を奨励・信仰した人物である。そういうわけで、青山神社は学問と教育の神様ということになっている。 |
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また、「青山忠誠公追慕碑」も境内にあった。青山忠誠(1859〜1887)は、篠山藩13代藩主・青山忠良(1806〜64)の10男で、14代藩主・青山忠敏(1834〜73)の弟に当たる。 東京に生まれた忠誠は、1875(明治8)年、旧藩士の子弟を東京に招き、学資を与えて進学させ、自らの邸内に寄宿舎を設けた。これが「尚志館」の始まりで、現在も兵庫県出身者のための学生寮として現存している。また、翌1876年には篠山に篠山中年学舎を設け、漢文・数学の教授に当たるっているが、これは現在の兵庫県立篠山鳳鳴高等学校の前身である。 どうも青山家には教育に携わった人間が多いようである。 |
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また、青山神社のすぐ近くには「青山忠誠公頌徳碑」も建っている。 |
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篠山城の周りには、その他様々な遺跡が残っている。 例えば、すぐ近くの駐車場は、地方役所門の跡地にある。 |
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さらに、高城屋敷門も城のすぐ近くに移築されている。この高城屋敷門、室町時代の創建とのこと。そもそもは八上城内にあり、1997(平成10)年にこの地に移された。 八上城は、篠山を支配した波多野氏の居城。初代波多野清秀が、応仁の乱(1467〜77)の戦功によって、室町幕府管領・細川政元(1466〜1507)から多紀郡(現・篠山)を与えられ、八上城に入る。以後、織田信長 (1534〜82)の派遣した明智光秀(1528?〜82)に1579(天正7)年に滅ぼされるまで5代に渡って波多野氏は篠山を支配している。 高城屋敷門は、八上城にまつわる唯一の残存建築であるとのことで、篠山市の指定文化財にもなっている。 |
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◆安間家史料館 | ||||
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丹波篠山は篠山城の武家屋敷として発展したが、現在でもその一部が現存している。特に城の西側の御徒士町(おかちまち)はその当時の面影を比較的よく残しているとのこと。そこで、最後にそちらのほうへ行ってみた。 その中の一つ、安間(あんま)家の武家屋敷が、史料館として公開されている。 |
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御徒士町の城下町は、1609(慶長14)年の篠山城完成直後から整備されたが、1830(天保元)年の火災で大部分が焼失している。現存する武家屋敷はいずれも1830年以降の再建で、この安間家も同様である。安間家は建築当初の形をよく伝えているとのこと。 |
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安間家は12石3人扶持の下級武士で、史料館には古文書や当時の調度品などが展示されている。それといって珍しいものは無いが、当時の武士の生活の雰囲気に触れるにはちょうどいい。 庭先に丹波水琴窟なるものが展示されていた。これは、地下に伏甕を埋め、そこに水滴が落ちると、反響して音色が響くというもの。耳を澄ますと微かに鈴のような音が聞こえる。 |
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のんびりしているうちに、雨が降ってきた。土砂降りだ。夕立ちである。これでは水琴窟どころではない。雨が止むまで待つことにした。 |
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しばらく休んでいたところ、雨も小降りになってきたので、次の目的地に向かうことにした。バス停に着くと、まだバスまではまだ時間がある。そこで、バス停の前にあった「小道具茶房 四季折々」でおやつを食べることに。くずもちを注文した。本くずに丹波黒大豆きなこを使用したとある。コーヒー付きで700円。 |
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京都府に入り、日本三景の一つ天橋立へ。途中、豪雨の影響で、天橋立に着いたのは予定より1時間も遅い時間だった。おかげで、店はほとんどしまっている。しかたがないので、夕食はコンビニ弁当で済ました。 しかし、天橋立といえば温泉地。この日本一周旅行で温泉を訪ねたのは、これが初めて。食事がわびしかったぶん、温泉だけは楽しんでおいた。 |
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京都慕情〜京都府・福井県〜 | ||||
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