仙台市
青葉城(仙台城)
所在地:仙台市青葉区天守台青葉城址(JR線仙台駅徒歩30分)
HP:http://www.sendainiko.com/honmarukaikan/toppage01.html
入場料:(青葉城資料展示館)大人700円 中・高校生500円 小学生300円
     
(宮城県護国神社英霊顕彰館)大人300円 中・高校生200円 小学生100円
開館:(青葉城資料展示館)9:00〜16:30
    (宮城県護国神社顕彰館)9:00〜17:00[4月〜9月]9:00〜16:00[10月〜3月]



青葉城(仙台城)の石垣
  


 「椿多摩杯争奪かるた大会(仙台大会)」出場のため、仙台にやって来た。仙台大会に出場するのは、大学時代以来3度目なのだが、朝東京から新幹線で出発しても十分間に合う。そんなわけで、今まではすべて日帰りで参加していた。さすがに、それはもったいないということで、今回は前日から仙台入りし、たっぷりと観光してきた。
 



仙台駅の政宗公像
  


 前日朝の新幹線で、仙台に到着。仙台と言えば、伊達政宗(15671636)のお膝元。まず駅構内にさっそくいらっしゃった。騎馬に乗ったお姿。白い姿で、目立っている。いかにも待ち合わせスポットといった感じである。この後、政宗公には仙台市内で何度と無くお目にかかることになる。
 



青葉通り
 


 まずは青葉城(仙台城)に向かうことにした。仙台駅から青葉城までは、約3キロあるが、この日は天気も良く、絶好の散歩日和。そんなわけで、歩いて行くことにした。青葉城までは、駅前のメーンストリート青葉通りをまっすぐ歩く。頃は 5月も末の新緑の季節。通りの樹木の緑はこぼれるようである。

  ♪青葉通り 薫る葉みどり 思い出は帰らず…

 さとう宗幸(1949〜)の大ヒット曲「青葉城恋唄」(1978年)のフレーズが頭の中を流れる。もっとも、あの歌は仙台七夕祭り(8月6日〜8日)のシーズンを歌ったものなので、季節としては、少し早いのだが、歌のイメージそのまま。
 やがて、「広瀬川流れる岸辺」にたどりついた。
 川の向こう側が、目指す青葉城である。小高い丘の上に城はある。
 



広瀬川
 


 青葉城のある山の名前が「青葉山」。青葉山にあるから「青葉城」と呼ばれているが、正式名称は「仙台城」である。ただ、一般的には「青葉城」のほうが通りがよいので、ここでも基本的には「青葉城」で通すことにしたい。
 青葉城には、鎌倉時代から「千代城」があったが、1601(慶長5)年に伊達政宗によって改築され、本丸と西の丸が築かれた。その際に地名も「仙台」と改められている。政宗は、太平の世に山城は適さないとして、自分の死後平城に移ることを勧めていた。政宗はもともとは、仙台の東にある躑躅岡(榴ヶ岡/つつじがおか)に城を建てたかったらしいのだが、最初の申請は徳川家康の許可が下りないだろうと考えて、青葉山を第一候補にしたところ、許可が下りてしまったそうである。その後、仙台藩2代目藩主・伊達忠宗(160058)によって山麓に二の丸・三の丸が作られ、現在のような「平山城」となった。
 戊辰戦争の際は、奥羽越列藩同盟盟主として最後まで新政府に抵抗するも、戦火に見舞われることはなかった。しかし、現在残っ ている当時の建物は一つもない。大半は明治以降に取り壊されている。やはり、最後まで敵対したのが原因であろうか。壊されずに残された数少ない建物も、第二次大戦の戦災によってすべて焼けてしまった。
 



青葉城隅櫓
 


 広瀬川を越えて青葉城址へ向かう途中、左側に、「大手門隅櫓(すみやぐら)」があった。1967(昭和42)年に民間の寄付によって復元されたものだが、現在往時をしのばせる唯一の建造物である。隅櫓は大手門と共に戦前は国宝に指定されていたが、1945(昭和20)年7月10日の仙台大空襲 の際に焼失している。
 その隅櫓を挟んで道の反対側に、支倉常長(15711622)の銅像が建っている。1613(慶長18)年から1620(元和6)年にかけて政宗の命で慶長遣欧使節団を率いて渡欧。ローマ教皇パウルス5世(15521621)に謁見して、貴族に叙せられ た。しかしながら、彼が帰国した時、時代はすでに鎖国であったため、失意のまま世を去らなくてはならなかった。そういえば、大河ドラマ「独眼竜政宗」(1987年NHK)では、さとう宗幸がこの常長を演じていたっけね。
 



支倉常長像
 


 隅櫓から、本丸までは曲がりくねった山道を登る。城の石垣が見えてきた。建物が残っていない青葉城にしてみると、こうした石垣が数少ない城であった証を今に伝える遺構だと言える。「宮城県護国神社」の鳥居が、青葉城の入り口である。観光バスに乗れば、一気にこの鳥居のところまで行くことができるのだが、それではいかにも勿体ない。やはり、自分の足で登ることで、少しでも城の雰囲気に浸 りたいものである。
 



宮城県護国神社の鳥居
 


 現在、本丸の跡地には宮城県護国神社を始め、仙台城見聞館、青葉城資料展示館そして土産物店などがある。ちなみに、二の丸は東北大学キャンパス、三の丸は仙台市博物館になっている。石垣などがわずかに残っているものの、やはりさびしい 。
 



伊達政宗公騎馬像
 

 
 現在の青葉城の見所としては、まず何よりも伊達政宗公の騎馬像。いろんなところで写真を見ることができるぐらい有名な像である。小室達(こむろとおる/18991953) の作で、1935(昭和10)年に作られたが、戦時中の1943(昭和18)年に金属回収で撤去されてしまった。現在のものは1954(昭和29)年に建てられたコンクリート製の2代目で、初代の鋳型をもとに作られている。ちなみに初代の像は、その後胸から上の部分が発見され、現在は仙台市博物館に展示されている。
 



荒城の月碑と土井晩翠像
 


 天守台跡地には土井晩翠(18711952)の胸像と、彼が作詞し、滝廉太郎(18791903)が作曲した「荒城の月」の碑が立っている。

  春高楼の花の宴 巡る盃影さして
  千代の松が枝分け出でし 昔の光今いずこ

  晩翠は仙台出身で、「荒城の月」の「荒城(こうじょう)」は、青葉城を念頭においてい たそうだ。「千代の松が枝(え)」の「千代(ちよ)」も、仙台の古い名称なので、仙台のことを暗示していると考えられる。
 



島崎藤村詩碑
 


 晩翠の碑のすぐ近くには、島崎藤村(18721943)の詩碑も立ってい た。

  
心の宿のみやぎ野よ 乱れて熱きわが身には
  日かげもうすく草枯れて 荒れたる野こそうれしけれ
  独りさみしきわが耳は 吹く北風を琴ときき
  かなしみふかき吾が眼には 色無き石も花とみき

 藤村は1896(明治29)年に、仙台の東北学院に英語と作文の教師として赴任。1年間の滞在の間に詩作にふけり、第一詩集「若菜集」が生み出されている。この碑は、1936(昭和11)年に現在の八木山動物公園の辺りに建てられたが、1967(昭和42)年現在地に移された。
 晩翠と藤村、明治期に並び称された二人の詩人の碑が、共に仙台にゆかりがあり、現在こうして同じ青葉城の中に揃って立っていると言うのには、なんだか感慨深いものがある。
 



青葉城資料展示館
 


 青葉城に来たなら「青葉城資料展示館」に行ってみよう。政宗を始め、仙台藩や伊達家にまつわる資料が展示してある。中でも見ごたえがあるのが、CGシアター。在りし日の青葉城の姿をCGで再現した映像を見ることができる。
 同じ建物にはレストランや土産物店があるが、ここにもやはり政宗公はいらっしゃった。
 



資料展示館前の政宗公
 


 最後に、宮城県護国神社に行ってみた。ここは政宗公によって建てられた西の丸の跡地にある。宮城県護国神社は1904(明治37)年8月27日、明治天皇によって創設されている。ここもやはり1945年の仙台大空襲で全焼したが、戦後再建されて現在に至る。資料を展示する「英霊顕彰館」は2004(平成16)の神社創立100周年を記念して作られている。
 ここには明治維新・戊辰戦争から、第二次世界大戦に至る、宮城県出身戦没者を始め、元第二師団管内(福島・新潟・山形の一部)の戦没者計5万6000人が祀られている。英霊顕彰館も当然、明治維新以降の戦没者の遺品の展示が主である。ちょうどこの時は戦艦大和の模型を展示していた。個人的には戊辰戦争の戦没者の展示が興味深かった。何しろ、仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主として、戊辰戦争では会津藩などと共に最後まで官軍に抵抗した。戊辰戦争では 1,266人が戦死している。青葉城は戦火に見舞われず、明治維新まで無傷で残ったにもかかわらず、ほとんどの建物が取り壊されてしまった要因は、明治政府への敵対行為への報復であったような気がしてならない。
 



宮城県護国神社
  


 青葉城に向かう時頭の中を流れていた「青葉城恋唄」がいつの間にか、大河ドラマ「独眼竜政宗」のテーマソング(池辺晋一郎作曲)に変わっていた。
 

(2006年5月27日)

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