洛中
本隆寺
所在地:上京区智恵光院五辻上ル紋屋町303(地下鉄烏丸今出川駅 徒歩15分)
HP:http://www.hokkeshu.jp/honzan.html



法華宗総本山本隆寺本堂
  


 そもそも僕がなぜこの時期に京都を訪ねたのかと言うと、5月21日に開かれた競技かるたの「小倉百首かるた忌慶讃全国大会」に出場するためだったのである。かるたの大会は北は岩手・水沢から、南は鹿児島まで全国各地で開かれている。せっかく大会に出るのだったら、観光しなければ損だ。そんなわけで、僕は大会前日に京都に入った。
 さすがは京都の大会である。この小倉忌大会も由緒ある寺の一つである本隆寺が会場となっている。
   



法要の様子
 


 そもそも「小倉百首かるた忌」は、1947(昭和22)年に京都歌かるた協会の鈴山透(1906〜98)が中心となって、小倉百人一首を選出した藤原定家(1162〜1241)と百人の歌人、並びに全国物故かるた選手の法要を営むと同時に、その霊前に最高のかるたを奉納しようとの目的で始められた。彼の日記「明月記」(1180〜1235)によって定家が小倉百人一首を選出したと推測される1235(文暦2)年5月27日を記念して、第1回大会は1947年5月27日、小倉山麓の嵯峨天竜寺で行なわれている。
 例年、その前年に亡くなったかるた選手の法要を合わせて行なうのだが、今年は一人も物故者が無かった。それはとても珍しいことであるそうだ。ちなみに僕は1996年と2004年に次いで3回目のこの大会出場である。
   



小倉忌大会の様子
1番左の対戦右側が西郷直樹永世名人
   


 本隆寺
は、法華宗(日蓮宗)真門流の総本山。慧光無量山本妙興隆寺(えこうむりょうさんほんみょうこうりゅうじ)というのが正式名称。略して慧光山本隆寺である。日蓮宗の流れを汲む日真(1444〜1528)が、妙顕寺の日具の下で修行した後に、1488(長享2)年に四条大宮に開創した。1536(天文5)年の「天文法華の乱」で諸堂を焼失し、1542(天文11)年に現在地に移ってくる。
 「天文法華の乱」は「天文の法乱」ともいい、日蓮宗側からは「天文の法難」ともいう。1536年7月に、法華宗の布教拡大を恐れた比叡山延暦寺の僧兵と宗徒6万が、宗教論争に敗れたことをきっかけに法華経弾圧に乗り出し、21の日蓮宗寺院をことごとく焼き尽くした事件である。これによって日蓮宗は壊滅的な打撃を受け、1542年に15本山(現在は16本山)の再建が許可されるまで京都内において禁教とされてしまう。本隆寺もこの期間は堺に避難している。
  



本隆寺山門
 


 大会の方は1回戦で負けてしまったので、境内を見て回ることにした。考えてみると、過去2回の出場の際は、ろくに見学もせずに帰った気がする。今からすると実にもったいないことであ った。

 本隆寺は、再建後もたびたび火災にあっているが、1788(天明8)年の大火の際には、本堂(写真)と祖師堂(写真下)など が焼け残り、以来「不焼寺(焼けずの寺)」と称されるようになった。その本堂は日蓮宗16本山の中で最も古いものだそうで、祖師堂と共に京都府指定文化財となっている。
 ちなみに大会の会場となっているのはその祖師堂。う〜ん、なんとも恐れ多い。
   



本隆寺祖師堂
 


 祖師堂のすぐ手前にある松の木は「夜泣止松(夜泣き止め松)」と呼ばれている。その由来は、1532(大永4)年のこと、この寺5世の日諦上人が、養育を頼まれた赤ん坊の夜泣きに困った時に、この木の周りを回ったところ泣き止んだという故事による。その赤ん坊は成長して後7世日脩上人となった。
 
  



夜泣きの松
 


 この本隆寺は観光客慣れした寺とは違い、どことなく地元に溶け込んだ、そんな庶民的な寺のように感じる。この日は晴れて天気もよく、のんびり散歩するのに最適な日であった。
 一通り、境内の散策を終えたので、京都の町へ観光に出ることにした。これから北山へ行ってみようと思う。
  



鐘楼
 

(2006年5月21日)

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