ソウル
景福宮
경복궁 Gyeongbokgung



景福宮
 


 李氏朝鮮の開祖・李成桂(太祖/1335〜1408/在位1393〜98)が1394年に建てた王宮・景福宮。永らく李氏朝鮮の正宮として使用され、現存の王宮の中でも最大の規模を誇る。
    





光化門(再建中)
 

  
 景福宮の入口に建つ壮大な正門・光化門は1394年に初めて建設され、文禄の役(1592年)や朝鮮戦争(1950年)などで何度となく焼失。現在のものは1972年に鉄筋コンクリートで再建されたものである。日本統治時代の1915年、朝鮮総督府が庁舎を建てる際に撤去が決定していたが、民族学者の柳宗悦(1889〜1961)の反対によって破壊を免れ、移築されたというエピソードもある。
 ちなみに僕が訪ねた2010年2月当時、光化門は本来の位置に戻すべく再建中だった(同年8月に再公開)。
   



再建された光化門
(2012年8月26日)
 


 その後、2012年8月に再訪問したところ、見事に光化門は再建されていた。
  

 

世宗路
左奥に光化門、右手に李舜臣像が見える
 

  
 光化門の前の通りは世宗路。朝鮮王朝4代・世宗(1397〜1450/在位1418〜50)にちなんだもの。
    



世宗像
(2008年8月26日)
 


 その世宗王の銅像も世宗路には建っている。2009年の「ハングルの日(10月9日)」に合わせて公開された像で、手には「訓民正音(ハングルの古称)」の解例本を持ち、百姓たちと向かい合っているそうだ。
 



世宗像の前の稲
(2012年8月26日)
 


 さらに、像の前には田植えの稲があるが、これは百姓たちを表しているのだろう。
  



李舜臣像
(2012年8月26日)
 

 
 また、李舜臣の像も建つ。李舜臣(1545〜98)は文録・慶長の役(1592〜98)において水軍を率いて日本軍を撃退した英雄である。軍事政権下に力の象徴として建てられ、日本のある南を睨みつけているとのこと。
  


興礼門
 
  
 景福宮には興礼門(フンレムン)から入ることになる。興礼門は1916年に朝鮮総督府が建てられた際に撤去されていたが、2001年に復元された。
    





王宮守門将交代儀式
 


 興礼門に建っていたら、色鮮やかな伝統民族の服を着た一団がやってきた。朝鮮時代の守門軍の交代儀式が再現されている。
    



永済橋
 


 興礼門から中に入ると、やはり禁川があり、永済橋(ヨンジェギョ)がかかっている。1426年に名前が付けられた橋だという。
  



禁川


欄干のヘテ
 


 欄干の上には石の動物が乗っている。これはヘテという想像上の動物で、狛犬のような役割があるそうである。
  



維和門
 


 永済橋を渡って左手には維和門がある。維和門の外には大臣が国事を論議していた賓庁(ビンチョン)があったそうである。
   





勤政門
 


 正面にあるのが勤政門(クンジョンムン)。景福宮の正殿である勤政殿の正門として、1867年に建てられた。建設当時のものが現存しており、国宝にも指定されている。
    



勤政殿
 


 勤政門を入ると勤政殿(クンジョンジョン)に出る。現存最大の木造建築物である。1395年に建徳されたが、文禄の役で焼失。1867年再建された。
  



品階石
 


 勤政門から勤政殿への石畳は、三道(サンド)と呼ばれ、本来王のみが通ることを許された道であった。
 その三道の両側には大理石の品階石が並ぶ。それぞれ正1品から正12品まであり、臣下はそれぞれの官職によって石の前に立っていたのだそうだ。勤政殿に近いほど地位が高い官職になる。
  



鳳凰の彫刻


ヘテ像
 


 勤政殿に上がる階段の中央には鳳凰の彫刻がある。また、両側の欄干にはヘテの像が置かれている。
  



玉座
 


 勤政殿の中央には玉座が安置され、その後ろの屏風には「日月五峰図」が描かれている。現在、1万ウォン紙幣の絵柄としても採用されている。
  



思政門
背後に思政殿がある
 


 勤政殿のすぐ裏には思政殿(サジョンジョン)がある。勤政殿で公式的な行事が行なわれたのに対し、思政殿は王が日常的に滞在し、御前会議などで臣下と国事を行っていた場所である。
     
  



思政殿
 


 思政殿内部には龍の壁画があった。
  



千秋殿


千秋殿の内部
 


 思政殿の左隣が千秋殿(チョンチュジョン)。文禄・慶長の役で焼失し、1865年に再建された。
 4代王・世宗と、集賢殿(チピョンジョン)の学者がここで様々な文物を作り出したという。
    



萬春殿
 


 右隣が万春殿(マンチュンジョン)。国王はここで国事を行うばかりでなく、聖賢の本を読んだり、臣下と宴会を開くこともあった。1867年、26代王・高宗の父である興宣大院君 (1820〜98)が景福宮を復元した際に建てられた。朝鮮戦争で消失し、1988年に再建されている。
   



康寧殿
 


 思政殿の真後ろにある康寧殿は、1395年の創建で、国王夫婦の寝室とし使われていた。「井」の形に9つの部屋が設けられ、国王が真ん中、その周りの8つの部屋には女官が宿直していたそうである。
  



延生殿


慶成殿


延吉堂
 


 康寧殿は東隣に延生殿(ヨンセンジョン)、西隣に慶成殿(キョンソンジョン)という2つの小寝殿、また延吉堂(ヨンギルダン)といった建物が付属している。いずれも日本支配時代に撤去され、1994年に復元された。
   



欽慶閣
 

  
 欽慶閣(フンギョンガク)は、1438年、科学者の蔵英実によって建てられたもので、自動水時計である玉漏機輪を設置し、時刻・方位・季節を調べていた。1553年に焼失し、翌年に再建されたが、日本の植民地時代に撤去され、1995年に復元された。
     



欽慶閣の瓦
 

 
 ふと屋根の上を見たら、瓦が何とも言えない奇妙な形をしている。
  



含元殿
 


 さらに奥には含元殿(ハムオンジョン)がある。
  



修生殿
 


 景福宮の西側には修政殿(スジョンジョン)がある。世宗の時代に学問を研究する場である集賢殿(チピョンジョン)として使われ、ここでハングルの前身である訓民正音も作られたと言われる。文禄・慶長の役で焼失し、1867年に再建され、「修政殿」と名前を変更された。
  



慶会楼
 


 景福宮の北西にある池の中に建つのが慶会楼。国に祝事があった時の宴を催すために作られた。
 1412年、太宗によって建てられたが文禄・慶長の役で焼失。1867年、興宣大院君によって再建された。国宝に指定されている。
 



慈慶殿
 


 景福宮はとにかく敷地が広大である。
 北側にある慈慶殿(チャギョンジョン)まで、雪の中を歩かねばならなかった。
   





慈慶殿
 


 慈慶殿は、興宣大院君が、息子・高宗の養母である神貞王后(1808〜90)のために建てた宮殿である。
  
   



清燕楼


協慶堂
 


 現在の建物は1888年の再建で、国宝に指定されている。
   



裏庭の壁
 


 慈慶殿の裏庭にある壁は美しく装飾されている。
  



オンドルの煙突


オンドル焚口
 


 慈慶殿の裏には、オンドルの煙突や焚口もある。やはり、韓国の伝統的な家屋らしい。
   



緝敬堂・咸和堂
 


 さらに北に歩くと、塀に囲まれた離宮があるが、ここには緝敬堂(チッキョンダン)・咸和堂(ハムファダン)がある。
  



緝敬堂


咸和堂
 


 共に高宗の時代に建てられており、2つの建物は通路でつながっている。
  





香遠亭
 


 そのすぐ北側には小さな池があり、人造の島の上に香遠亭(ヒャンウォンジョン)がある。 1867年、高宗が乾清宮を建てる際に、その南側に池を掘り、池の真ん中に島を造り、散歩を楽しんだそうだ。
    



乾清宮
 


 池の北側にある乾清宮は、1873年、高宗によって建てられ、高宗とその明成王后(閔妃/1851〜95)の生活の場であった。1895年に、明成王后は日本からの刺客によりこの場で殺害されている。1915年に撤去され、総督府美術館が建てられていたが、2007年に復元された。
  



長安堂


秋水芙蓉楼


玉壷楼
 


 乾清宮の内部の建物は装飾があまり施されていないせいか、他の建物に比べて地味な印象を受ける。
   



国立民俗博物館
 


 景福宮の北東には五重塔がそびえているが、それは国立民俗博物館。1975年に開館し、1993年に現在地に移ってきた。
  





孝子門
 


 博物館は先史時代から李朝時代にかけての伝統的な生活を展示している。入場券は景福宮と一緒なので、ついでに観る価値はあるだろう。
  それにしても、景福宮の規模はあまりに大きい。その規模には圧倒された。時間の関係もあって、ちら見していただけだが、それでも有に1時間はかかった。
   

(2011年2月11日)

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