ソウル

慶熙宮
경희궁 Gyeonghuigun



慶煕宮
 

 
 2010年2月。急に思い立ってソウルへ出かけた。雪が降って寒い中、いろいろと観光をしてきた。ソウル市内には歴史的な建造物が数多く残っている。一番最初に訪ねたのは慶煕宮であった。
  



興化門
 


 慶煕宮は、李氏朝鮮時代(1392〜1910)の宮殿。暴君として知られる15代王・光海君(1575〜1641/在位1608〜23)によって1616年に建設が始まった。もともとこの地には光海君の弟・定遠君(1580〜1619)の邸宅があったが、この一体に「王気(王が出る予兆)」が漂うとの噂を聞いた光海君がその地を奪い、宮殿の建築を始めた。当初、「慶徳宮」という名であった。しかし、光海君は完成を待たずに廃位され、完成したのは1923年のこと。次の16代王・仁祖(1595〜1649/在位1623〜49)が最初である。その後21大王・英祖 (1694〜1776/在位1724〜76)の時に「慶煕宮」と改められた。
 現在、慶煕宮はソウル5大古宮の1つにも数えられている(他は景福宮、昌徳宮、昌景宮、徳寿宮)が、日本統治の時代に100余りあった建造物のほとんどは破壊・移築されてしまった。

 正門にあたる興化門もそのひとつ。1616年に建てられていたが、日本統治時代に伊藤博文(1841〜1909)を称えるために建てられた博文寺の正門として使われていた。その後は新羅ホテルの正門として使用されていたが、1988年現在の地に移築・復元された。
  



崇政門


崇政殿
 


 興化門をくぐり少し歩くと、崇政門がある。そこをくぐると、慶煕宮の正殿である崇政殿がある。崇政殿は王の即位式など 公式の儀式が行われた場所で、1618年頃の創建。しかし、日本統治時代の1926年に現在の東国大学校跡に移転された。1985年から5回に渡る発掘調査を通じて発見された基壇をもとにして、現在の位置に復元され ている。
   



資政門


資政殿
 


 崇政殿の奥にある資政門をくぐると資政殿がある。資政殿は慶煕宮の便殿で、王が通常滞在していた場所。臣下との会議など、公務が行われていた。1617〜20年頃に建てられたが、日本統治時代に取り壊され、1980年代に復元された。
    



泰寧殿
 


 慶煕宮の左手奥にある泰寧殿はもともとは用途が決まっていなかった建物だそうだが、1744年に21代王・英祖が自らの肖像画を安置する場所として使い始めたそうである。ここもやはり日本統治時代に取り壊されたものを復元している。
 



英祖の肖像画
 


 中には英祖の肖像画が飾られている。
  





瑞巌
 


 泰寧殿の裏には変わった形の岩がある。瑞巌(ソアム) と言われるが、「岩の泉」という意味の「巌泉(アムチョン)」が内部にあるといわれ、古くから「王巌(ワンアム、王の岩)」と呼ばれ神聖視されていた。光海君が慶熙宮建築を思い立ったのは、この岩があったからではないかとも言われている。 19代王・粛宗(1661〜1720/在位1674〜1720)が1708年に名を「瑞巌」に変更した。
   



 


 朝早い時間に来たせいか、あるいはあいにくの雪模様からか、観光客が他に誰もいなかった。何だか寂しい気持ちにさせられた。
  



缶コーヒー
 


 敷地内の自動販売機で缶コーヒーを買って暖を取り、慶煕宮を後にした。
  



ソウル歴史博物館
 


 慶煕宮に併設してソウル歴史博物館がある。今回は行かなかったが、ソウルという1都市の歴史のみに関する展示がされているそうである。
  



外に展示されている路面電車
 


 慶煕宮のすぐそばを禁川(グンギョ)が流れている。錦川橋(クムチョンギョ)がかけられている。1619年に建てられたが、日本統治時代に埋められ、2001年に復元されている。
 橋の横に刻まれた鬼人の像は宮廷外の邪気が宮廷内に入って来れないようにという意味があるそうだ。
  



禁川


錦川橋
 

(2010年2月11日)

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