Medal of Honor















































































































































 Medal of Honorは合衆国の軍人に授けられる勲章の中で、最も高位に位置する勲章である。
 作戦行動において、真の勇気、仲間と国への忠節、一兵士の義務を遥かに超えた戦果を挙げた者にのみ授けられる究極の賞で、どんなに金を積んでも、どんなに名声を得ても、戦闘時に武勲をたてた者以外は手にする事が出来ない。いわば軍人としての栄誉の頂点がこの合衆国議会名誉勲章なのである。
 第二次世界大戦時、日系アメリカ人としてナチスドイツと戦った442連隊の中からも議会名誉勲章受賞者が出ている。
 Prv Sadao S Munemori……サダオ・ムネモリ二等兵。60年前、アメリカへの忠義を誓い、イタリアの地で戦った22歳の青年は、その献身と勇猛さを認められ合衆国議会名誉勲章を受賞したのだった。



《サダオ・ムネモリ》
 時に1939年。ナチスドイツのポーランド侵攻を機に、第二次世界大戦が勃発した。ナチスドイツと同盟国であるイタリア・日本は枢軸同盟国と見なされ、アメリカ国内における日系人は敵性民族として差別の対象となった。
 1941年の暮れ。日本帝国軍の真珠湾奇襲攻撃を受けて日本に宣戦布告をしたルーズベルト大統領は「日系移民を敵性民族として強制収容所に監禁する」という暴挙に出た。
 財産を没収された上で収容所へと連行される日系人達。だが、アメリカの地で産まれ、アメリカ文化の中で育ったニセイ(二世)達は異を唱えた。「俺達はアメリカ人だ!俺達は敵じゃない!」
 サダオ・ムネモリもその一人だった。サダオはアメリカで生を受け、アメリカの中で育ったニセイであり、自分はアメリカ人として国に忠節を尽くす必要があると考えていた。「自分は敵ではない。自分はアメリカのために戦う」と主張して、祖国への貢献を声高に叫んだのだった。

 サダオはカリフォルニアに移民した日本人の間に生まれた日系二世だった。両親、そして姉と共にアメリカ文化の中で育ったサダオにとっては、日本は遠い外国であり異国そのものだったのだ。日系移民達は貧困の中での生活を余儀なくされており、サダオも幼少の頃は辛い生活を送っていた。だがその生活が、彼に人徳と努力の大切さを教える事になった。必死で学び、人との接し方を学んだサダオは、両親の期待を一身に受けて大学へと進み(1940年当時としては破格の身分だ)ムネモリ家を支える存在として社会に羽ばたこうとしていた。だが、その折の真珠湾奇襲攻撃……日系人達は犯罪者のごとく扱われ、サダオの未来は奪われた。
 サダオは先頭に立ってアメリカ政府に抗議の声を伝えた。「俺達はアメリカのために戦う!日系人は敵じゃない!」と。
 同様の声は多くのニセイ達、とりわけハワイの日系人達からあがっていた。その声を聞いたアメリカ本土の日系人達もハワイの日系人達に続き、敢然とした決意を政府の中枢へ突きつけたのである。
 この声に政府は折れた。日系人、ニセイ達で構成された「第100歩兵大隊」を創設することに決めたのだ。
 100大隊へは志願者が殺到した。もちろん、サダオもこの募集に飛びついた一人だった。サダオは小柄で体力的には劣る存在だったが、持ち前の人徳と不屈の闘争心で選抜試験を乗り越え、遂に100大隊への入隊を許可されたのだ。
 「今こそアメリカの為に戦う時だ」 サダオは家族の下を離れて兵士となり、訓練に明け暮れたのだった……。

《ニセイ達の戦い》
 アメリカ本土ミシシッピ州、キャンプ・シュワビー。第100歩兵大隊に選抜されたニセイ達はこの地で訓練を積む事となった。だが、この「ジャップ大隊」に向けたれた視線は冷たいものだった。アメリカ人の誰もが彼らを「敵」として見ていたのだ。
 ニセイ達は自分達の状況を冷静に分析していた。成程、自分達は敵国である日本人の子供である。であるから敵であると見なされても仕方が無い。だから、この現状を看破する為には戦場で武勲をあげるしかないのだ、と。
 ニセイ達はどんな命令にも進んで従った。どんなに屈辱的な命令でも、どんなに過酷な命令でも、決して不満を漏らす事無く責務を果たしたのだ。自分達はアメリカの為に戦う兵士であると証明する為に……。
 この試練がニセイ達をまとめあげた。共に糧食を分け与え、傷づいた者が居れば肩をかし、皆が仲間の為に犠牲になる事の意義を学んだのだった。
 事実、後に英雄となる兵士達の多くはこの訓練を受けていた。朝鮮系移民でありながら崇拝に近い尊敬を集めた伝説の兵士ヤング・キムや、たった一人で機関銃陣地を粉砕し、戦後に上院議員となるダニエル・イノウエも又、サダオと共に100大隊の訓練を受けていたのである。

 1943年8月。遂に100大隊に出撃の時が来た。膠着状態であるイタリア戦線への投入が決まったのだ。
 イタニアにはドイツ軍の精鋭部隊が展開しており、激戦は必至だった。であるから人選には細心の注意が図られた。戦前から軍人である者や士官教育を受けた者、特に体力に秀でた者を中心に部隊の編成が進められた。残念ながらサダオは選抜からもれてしまったが、戦場に向かう友に向けて精一杯の声援を送り、100大隊の出撃を見送った。
 こうして送り出された100大隊はイタリア戦線において比類無き武勲をたて、ニセイ達が切望して止まない「信頼」を勝ち取ることに成功した。サレルノ上陸作戦以降、常に最前線で戦い続け、モンテ・カッシーノの激戦を経て前代未聞の大戦果を連合軍にもたらしたのである。

 だが……そのうちの半数は、生きて故郷の土を踏む事は無かった。

《消耗品の日系兵士》
 ローマを攻略し、イタリア半島を解放した連合軍。傷ついた100大隊への増援として、サダオ達日系兵士部隊「442連隊」はイタリアへと送られた。
 100大隊の凄惨な様を見たサダオ達は絶句した。97%の負傷率と50%の死亡率。士官から兵卒に至るまで無傷な者は皆無で、誰もが疲れきっていた。生き残った100大隊の面々は、サダオ達に仲間がどれだけ勇敢であったか、どれだけ皆がアメリカの為に死力を尽くして戦ったのかを切々と語った。
 その全てが英雄的な行為と献身に溢れていた。サダオ達補充兵は目頭を熱くしつつ、100大隊……今や連隊の規模にまで拡張された日系兵士達はイタリアの地を進んだ。
 やがて、サダオに初陣の時が訪れた。後の世に「ベルヴェデルの戦い」として語り継がれる激戦である。
 強力な防衛線を敷いたドイツ軍に対し442連隊は真正面から戦いを挑んだ。凄まじい突撃力、犠牲を厭わない闘争心で防衛線を粉砕した442連隊は、車両50台以上を破壊し、ドイツ軍の死傷者と捕虜、合計300名という大勝利を収めた。442連隊は、世界にその戦闘能力の高さをしらしめたのである。
 サダオをはじめとするニセイ達、442連隊はアメリカに対する忠誠心と信頼を勝ち得ようとしていた。戦果と武勲は他の部隊の追随を許さぬものであり、その行動の全てがアメリカ軍の模範となっていたからだ。100大隊・A中隊の小銃手として初陣を勝利で収めたサダオも「俺達は遂に成し遂げた」と喜びに沸いていたのだが……。
 圧倒的な戦果を挙げた442連隊であったが、誰もが日系人を褒めた訳ではない。太平洋戦線で肉親を殺された者や、自身の出世の為に442連隊を利用しようとする者……。名を上げたために、日系兵士達は多くの味方と敵を作る事になったのである。
 これ以降の442連隊の戦いは過酷を極める事となった。戦闘能力の高さを利用されて危険な最前線に送り出され、どんな命令にでも服することを逆手に無謀な作戦に従軍させられた。
 だが彼等は逆らわなかった。全ての戦場で最も危険な任務に就き、その全てを成功へと導いたのである。
 442連隊の典型的な戦い方はこうだ。敵の機関銃や野砲で部隊の進軍が妨げられた場合、少数の者が敵地に向けて突撃を敢行する。無論、敵の集中砲撃を浴びてその者達は倒れる事になるのだが、僅かな時間、敵の火線が部隊から逸れる事になる。その隙に部隊は1m、10mと前進し、敵地へと肉薄するのだ。そうしてまた部隊が砲撃で釘付けにされた場合は、次の者達が突撃して行き、後続の者の盾となる。
 「一人が死ねば十人が先へ進める。十人が死ねば百人が敵地へたどり着く。百人居れば任務を達成できる。如何にして百人を敵地へ送り込むか。答えは簡単だ。自分が盾になればいい」
 仲間の為に死ぬ事は最大の名誉だった。任務を達成すれば日系人の地位は向上するのだ。任務の一つ一つが強制収容所の肉親達の為になる。ならば自分の命など惜しくも無い。
 サダオはA中隊の分隊員として最前線で銃を撃つのが役目だった。彼自身は負傷することは無かったが、仲間達はそうではなかった。同期の者、幼馴染、友人……次々と姿を消してゆく友を尻目に、サダオはひたすらに戦い続けた。

《アメリカ人を助けるために》
 1944年10月。100大隊に緊急の命令が下された。フランス・ヴォージュ山中にて消息を絶った「テキサス大隊(442連隊所属の部隊ではない)」の救出が命ぜられたのだ。ドイツ軍の強力な攻撃に遭ったとみられるテキサス大隊は全滅を危惧されており、事は急を要した。
 しかし分からないのは「なぜ100大隊が行かなければならないのか」だ。付近には友軍が展開しており、わざわざ100大隊を指名する理由は無い筈である。
 ともかく命令は命令である。サダオら100大隊は小雪が舞うヴォージュ山中を進んだ。

「敵は機甲部隊だ!ちくしょう!生身で戦車と戦えってのか!」
 孤立したテキサス大隊を発見した100大隊であったが、思わぬ敵に行く手を阻まれる事となった。ドイツ軍の機甲部隊、つまり戦車隊である。
 まともな対戦車装備を持っていない100大隊がかなう相手ではない。次々と戦車の前に撃ち倒されていく仲間達を見て指揮官は撤退を命じようとしたのだが「俺達が逃げたらテキサス大隊は全滅だ……」孤立した仲間の為に戦うことを余儀なくされた。僅かなバズーカ砲と対戦車地雷、爆薬と重機関銃だけが頼りだった。ドイツが誇るタイガー重戦車の前のでは歩兵は余りにも無力であり、100大隊の身はまさに風前の灯火だった。
 ……不眠不休の戦いが四日続いた。辺りには仲間の死体と半壊した敵戦車が累々と横たわり、地獄の様相を呈していた。だが戦いは終わらない。ドイツ軍は尚も戦車を前面に100大隊へと肉薄してくる。
 さらに四日が経過した。誰もが体力の限界を越えていた。疲労の極地に達し、眠りに落ちるように倒れたまま二度と起き上がらない者、飢えと渇きで幻覚を視る者、手足を失い吹雪の中で死んでいく者……。誰が生き残っているのかすら分からなかった。
 だが八日目の陽が昇る頃、遂にドイツ軍は根をあげた。100大隊は戦いに勝利し、テキサス大隊は救出されたのだ。
 救出されたテキサス大隊は100大隊に感謝の言葉を述べた。
「ありがとう!本当にありがとう!フランスの山奥で、まさかジャップに助けられるとは思わなかったよ!」
 その言葉を聞いたニセイ達は烈火の如く怒り、彼等の胸倉を掴んでこう言ったという。
「俺達をジャップと呼ぶな!俺達はアメリカ人だ!お前と同じ、アメリカ人なんだっ!」
 テキサス大隊は日系兵士達の悲惨な境遇を知らされ、いかに自分達の言葉が日系兵士を傷付けたかを思い知った。
 犠牲になった日系兵士の為に皆が泣いた。テキサス大隊の者達は手厚く犠牲者を葬り、100大隊の献身と勇気を生涯忘れないと心に誓った。

 ……200名のテキサス大隊を助けるために、100大隊は800名を失っていた。

 戦後、この作戦に関しての報告がまとめられた。その報告書の中では、当時の司令官が自身の出世の為に日系人を使い捨てにした事が明確に述べられている。司令官は100大隊が絶対に命令を拒まない事を知った上で、無謀な作戦に就かせたのだ。この報告が広がった時点でその司令官は失脚。変わりに日系人達の献身さが大いに伝えれられ、地位の向上に繋がる事となった。
 結果的に、フランス山中で犠牲になったニセイ達の志は達成されたのである。

《メダルオブオナー》
 1945年4月。サダオは100大隊の古参兵として皆の信頼を集めていた。サダオの所属する100大隊A中隊第2小隊の中で、部隊設立時から生き残っている者は極僅かであり、その者達全員が歴戦の勇士であったからだ。
 かつてアメリカ本土で共に訓練を送った友人は、そのほとんどが命を落としているか重傷を負って本国に送還されていた。サダオのような経験豊富な兵は下士官、時には士官の地位を与えられるのが常だが、彼はあくまで二等兵として最前線で銃を撃つ役目を選んだ。自身の身を危険に晒して仲間の為に戦うサダオは部隊の勇者として誰からも好かれる存在となっていた。
 ドイツ降伏が噂され、誰もが故郷への帰国を望んでいた春。「もしかしたら生きて故郷に帰れるかもしれない」サダオ達は希望を胸に一日を過ごしていた。戦後、日系人達の地位を回復させる為の運動やそれぞれの夢を語りつつ、ニセイ達は終戦の時を待った。
 そんな折、突如442連隊に連合国総司令官アイゼンハワー大将直々の命が下された。イタリア北部でいまだ強力な防衛線を築いているドイツ軍の掃討作戦を命じられたのである。
 イタリア北部には「ゴシックライン」と呼ばれるドイツ軍の防衛線が築かれていた。これを攻略すべく黒人だけで編成された部隊「バッファロー部隊」が任務に就いていたのだが、彼等は五ヶ月間全く戦果をあげておらず、司令部から失敗の烙印を押されていた。アイゼンハワーは黒人部隊に活を入れるべく、彼らと同じ境遇の日系部隊を差し向けたのである。
 多大な期待と嫉妬を受けゴシックライン攻略に挑む442連隊。サダオは第2小隊の実質的な指揮官として、第一波の攻撃に加わった。「あと少しで戦争が終わるって言うのに、俺達はまだ戦わなければならないのか」ニセイ達に不満が無いといえば、それは嘘だろう。だが彼等が戦わなければ黒人部隊が死ぬことになるのだ。黒人でも白人でも、同じアメリカ人が死ぬのを見ていることは出来なかった。ニセイ達は最後の戦いを完遂すべく、ゴシックライン攻略作戦の任務に就く。
 1945年4月5日。442連隊はゴシックラインに向けて総攻撃を敢行した。丘陵に陣取るドイツ軍に向かって砲兵部隊が10分間の全力射撃を行った後、歩兵部隊が肉薄するという戦法が取られた。
 砲撃によって穴だらけとなった斜面を進むサダオ達。対するドイツ軍は各所に据えた機関銃陣地から激しい銃撃を浴びせてきた。たちまちサダオの前を進む分隊長が撃たれ、周囲の味方は次々と数を減らしていった。
「分隊長がやられた!代わりに俺が指揮を執る!」
 二等兵であるサダオに指揮権は無いが、サダオの言葉に異を唱える者などいない。周囲の味方は一斉にサダオの指揮下に入り、敵の銃撃をかわしながら先へ進んだ。
 サダオは分隊を率いて巧みに敵へと肉薄。砲弾で出来た穴に分隊員を隠したサダオは、目前の機関銃陣地を指差し「俺が潰して来る!」自動小銃を片手にたった一人で突撃した。
 味方から悲鳴が上がり、たちまちサダオに銃弾が撃ち込まれた。だがその銃弾の一発もサダオに当たらない。
 サダオは自動小銃を乱射し敵二名に重傷を負わせ、三名を射殺した。この機会を見逃す442連隊ではない。たちまち後続の味方が前進を開始し、敵の防衛線の一角を切り崩し始めた。
 「やった!やったぞ!」穴へ駆け戻るサダオに向けて仲間から惜しみない賞賛の言葉が投げかけられる。分隊員達はサダオの奮戦に大いに勇気付けられ、穴から出て進撃を再開しようとした。だが次の瞬間……。
 ゴン、という音と共にサダオのヘルメットに何かが当たった。その何かは穴の中へ転がっていき、シュウシュウと音を立てた。
 「手榴弾だ!」誰かが恐慌に満ちた悲鳴を上げた。
 穴の底にドイツ軍の柄付き手榴弾が転がっていた。この手榴弾が狭い穴の中で炸裂すれば、分隊員全員が死ぬだろう。慌てて穴の中から飛び出ていく分隊員達だったが、二名ほど逃げ遅れていた。穴の淵で手榴弾を見つめるサダオ。その目に仲間と手榴弾が映る。
 迷いは無い。サダオは穴の中に身を躍らせた。そして肩と頭で抱え込むようにして、手榴弾の上にその身を覆い被せた。仲間の目が驚愕に歪み――。

 直後、サダオの身体の下で、手榴弾が炸裂した。

 「サダオー!」穴の中に残っていた二名はサダオに駆け寄った。二名に怪我は無い。手榴弾の爆風も破片も、全てサダオの身体が吸収したのだ。異変に気付いた周囲の味方が駆け寄り、誰もが驚愕の悲鳴を上げた。
 「じょ、冗談だろう!?ここまで、ここまで来たんじゃないか!それなのに、お前がこんな所で」サダオは何も答えない。仲間に被害が及ばないようにしっかりと手榴弾を抱え込んでいたサダオの身体は、ぼろ切れのようになっていた。衛生兵に診せるまでもない。即死だった。
 「そんな馬鹿な……」仲間を率いて勇猛果敢に戦っていたサダオが、一瞬のうちに命を落とした。誰もが信じられなかった。やがて恐慌が過ぎ去ると、皆が涙を流してサダオの事を想った。「あのサダオが……」皆にとって、サダオは心の支えであり、尊敬すべき戦士であり、何者にも変え難い友だった。そのサダオが死んだ。誰も現実を受け入れられなかった。
 呆然とサダオの遺体を見下ろす仲間達。そんな彼らに向かって後続のニセイ達が声をかける。
 「まだ戦闘は終わってないぞ!サダオの死を無駄にするつもりか!」
 ハッと、弾かれた様に彼等は顔を上げた。そうだ。こんな所で立ち止まっていてどうする?ここで戦うのを止めたら、仲間を守って死んだサダオに何と言えばいいのだ。
 誰かが叫んだ。「サダオがやられた!代わりに俺が指揮を執る!」ニセイ達は凄まじい勢いで進撃を再開し――。
 連合軍が五ヵ月かかって撃破できなかったゴシックラインを、442連隊は32分で攻略した。 

 サダオの死は部隊全員に伝えられ、その戦いぶりと最後の瞬間は涙と共に語られた。ゴシックライン攻略と共に解放された地元の住民は、サダオの為に彼の銅像を建立する事を決めた。
 やがて彼の死は作戦の立案者であるアイゼンハワーの耳にも届いた。この時点でサダオの死は442連隊のみならず、かつて救出されたテキサス大隊や、サダオと行動を共にした友軍の耳にも伝わっており、誰もが深い哀悼の意をサダオに示していたのである。
 この勇者の死に対して、アイゼンハワーと合衆国議会は一つの答えを示した。「サダオ・ムネモリに対して合衆国最高の勲章である議会名誉勲章を授け、彼の功績を永久に讃える」というものである。
 一回の作戦につき師団の中から一人にのみ贈られる最高の勲章。弾圧の中にある日系人に対して、それが贈られる事になるとは誰一人として想像すら出来なかった。
 サダオ・ムネモリは自らの勇気と献身によって議会名誉勲章を手にした。その瞬間、日系人と白人の間に垣根は無かった。サダオは一人の「アメリカ人」として最高の賞を手に入れたのだ。

 サダオの死から一ヵ月後の1945年5月7日。ドイツは連合国に無条件降伏し、戦争は終わった。

《Go For Broke》
 戦後、日系人達の新たな戦いが始まった。失われた名誉を取り戻すための戦いだ。442連隊に所属した兵士達は故郷に戻り、苦しい生活を送りながらも、皆の為に地位向上に励んだ。戦場で培った忍耐と努力を武器にアメリカ社会に挑んだ日系人達は、互いに支えあい、貧困と屈辱を跳ね返していった。やがて彼等の子供達、日系三世が社会に出る頃には、日系人達の地位は完全に元の状態に戻っていたのである。
 442連隊に所属した者達はこう言う。「ニセイという言葉は我々に誇りを与えてくれた。すなわち、我々はアメリカの地で産まれたアメリカ人なんだという誇りだ」
 2000年6月。442連隊の兵士達19名に議会名誉勲章が贈られた。かつて議会名誉勲章に匹敵する功績をあげていながら、時代の流れの為に受賞を逃した為である。これだけ多くの者が一度に議会名誉勲章を授けられた事は無かった。アメリカ建国以来、初めての大規模な授与式がホワイトハウスにて執り行われた。
 60年の時を経て、サダオとその仲間達は議会名誉勲章を通じて再び結ばれた。差別に勝利し、真のアメリカ人となり、最高の栄誉を手にしたニセイ達は、今日も変わらず「Go For Broke - 打ち砕け!」の精神と共に生きている。