he was my heart of gold.






 あのロヒアリムの青年を最初に見かけたのはいつだったろう・・・とボロミアは思った。
ずっと昔から知っているような、懐かしさを感じるのだ。

 ローハン軍と合流してすぐ、ゴンドールの総大将はセオドレド王子の元に挨拶に出向いた。
王子の後ろに、良く似た従弟が付き従っている。
何度か顔をあわせているのでお互いに顔見知りである。
だがボロミアが微笑みかけると、若いロヒアリムは何故かうろたえて、視線を落とすのが常だった。

「ではまたのちほど、王子殿下」
「ええ。食事の後に軍議を開きますから、その際はお呼びします」
了承のしるしに片手を上げながらゴンドーリアンが歩み去る。
その後姿を見ながら、セオドレドが従弟に言った。
「どうして黙っていたんだ?きみもかれと話したいのだろうと思っていたが」
「別に・・・話すことなど」
ないから、とエオメルは呟いた。所在なげに愛剣を弄んでいる。
王子は苦笑しながら従弟の長い睫を見やった。

***

 初めて執政の跡継ぎを見たときのことを、エオメルは鮮明に覚えていた。
母を亡くしたばかりのかれを、セオドレドがゴンドールとの合同演習に連れて行ったのだ。
悲しみにふさぎこんだエオメルは、優しい従兄が出かけるのを泣いて嫌がった。
幼いかれは従兄が母のように消えてしまったらどうしようと不安に駆られたのである。
そして暴れてだだをこね続けるうちに騎士たちも根負けし、訓練だから危険なことはないだろうと従軍することを許したのだった。

 眼前に展開されるゴンドール軍の威容がエオメルを圧倒した。
磨かれた金属のアーマーが陽光に映えて、銀色の光の軍勢のようだった。
その中心には、大きな角笛を抱えた執政の長子がいた。
「かれが未来のゴンドールの支配者だ」
セオドレドに教えられ、エオメルは大きな瞳を見開いてボロミアを見つめていた。

 やがてかれらに気づいたゴンドーリアンが近寄ってきた。
そして自分を凝視する、軍の中にいるには不似合いな子どもを不思議そうに見た。
そのときに何か言葉を交わしたかどうかは忘れてしまった。
ただ、笑いながらかれをのぞきこんだボロミアの瞳が、深い翡翠色だったことを記憶に刻んでいる。
その瞳をエオメルはずっと忘れられなかった。

 数年に一度、執政の長男がエドラスを訪れる機会があった。
伯父王セオデンは少年期をゴンドールで過ごしたため、いつもミナス・ティリスを懐かしがっている。
それゆえ執政の長子の訪問を喜び歓待するのだった。
ボロミアにとってもエドラスは居心地がいいらしい。
かれは温和な笑顔を振り舞いて、黄金館の人々を魅了していた。
エオメルはその姿をカーテンや柱の陰から、そっと覗くのが好きだった。
そばに寄りすぎるとどういう訳か、胸がどきどきしてしまうのだ。
だから隠れて好きなだけ見つめるほうが良かった。

 父の所領だった東谷を継ぐことになり、成年に達したエオメルはエドラスを出てアルドブルグ館に移り住んだ。
ほどなく第三軍団長の地位を与えられ、東の国境の警備も任されることになった。
東の国境、それはゴンドールとの隣接地である。

 エオメルは大国ゴンドールに憧憬と畏れの思いを抱いていたが、隣国の兵士たちと接することが多くなると、そうそうかしこまってばかりもいられなかった。
最も信頼できる友軍だと感嘆して肩を抱きあうことがあり、しかしロヒアリムに比べて機動力が劣るのを歯噛みして不満をぶつけることもあった。
時に、ローハン−ゴンドール間では激論も交わされた。
やがてエオメルの存在は、隣国の武将たちには精悍で荒々しい青年騎士として印象づけられた。
だが、ゴンドール軍の中にボロミアの姿を見つけると−−かれはいつも無力な子どもに還ったように、語る言葉をなくしてしまうのだった。

「きみは勝手に恋をはじめるんだな」
ある日、行軍で一緒になった従兄がかれに言った。
(恋・・・?)
セオドレドはエオメルの視線の先を辿って、そこにいつもボロミアがいるのに気づいたらしい。
(わたしはボロミア殿に恋しているのか)
そう腑に落ちた途端、スッキリした。
ゴンドーリアンを目にするたびに動悸が高まるのは、自分が馬鹿なせいかと思っていたのだ。

(そうだ。あの翡翠色の瞳に見つめられたときから、あの方はわたしの心の奥に居座ってしまった)
「わたしはなかなか、誰かに惚れないというのに・・・」
隣で従兄がぶつぶつ呟いている。
「あなたは誰にも惚れなくていい。わたしを見てれば充分だ」
エオメルが快活に言う。
セオドレドは秀麗な顔を不満げにしかめてみせた。

「何を考えてる」
「何も」
夜、天幕の寝床に並んで横たわっていると、従兄が尋ねた。
「きみが考えてることくらいわかるんだからな」
ふうん、とエオメルは答えた。
かれは暗闇の中でずっと、昼間のボロミアの姿を脳裏で反芻していたのである。
−−きっと、もっと美しい男も魅力的な男も、世にたくさんいるのだろう。でもわたしが視線を奪われるのはあの方だ・・・。

「にくらしい」
耳元でセオドレドが言う。
天幕の空気が密度を増して、吐息がこぼれた。
「あ・・・」
エオメルは声を洩らした。
「痛いよ」
「わざと痛くしてるんだ」
意地悪く従兄が答える。
「いやだよ。嫌いだ」
セオドレドは笑い声を上げ、もがく従弟を抱きしめる力を強めた。
そしてそっとため息をついた。

***

 自軍の陣地に戻ったボロミアはローハン軍のほうに視線を向けた。
相変わらず、見事な体格の騎士たちと駿馬が居並ぶ光景が壮観だ。
たった今訪れた王子の天幕の前には、セオドレドとエオメルが佇んで何か言葉を交わしている。
二人とも長身で羨ましいほど手足が長い。

 仲のいい従兄弟同士だった。
セオドレドが相手の髪のほつれを直してやっている。
エオメルは甘えた瞳で王子を見ていた。
離れていても、かれらの親密さが見て取れる。
いつも互いの肩や髪に触れて、相手を性的に挑発しあっているロヒアリムたちである。
隣国では恋愛遊戯も大らかに行なわれているらしい。

「ボロミアばかり見るんじゃないよ」
「見るくらい良いだろう」
「だめだ」
「だめってなんだよ」
じゃれあう様子が微笑ましい。
会話の内容は知らず、ボロミアは頬をほころばせた。

 セオドレドが臨席する際は、いつも強気なエオメルも一歩下がることを心得ていた。
軍議のあいだかれは後ろに位置して、目立たぬようにゴンドールの大将の白い貌を眺めるのだった。
ボロミアの方はその視線に気づいていた。魅力的な執政の長子は熱い視線を向けられることが多いので、慣れてもいた。
軍議の最中に、かれはふいに思い出した。
もう十年以上前、まだ二十代の青年だった頃、同じ年のローハンの王子が小さな少年を連れて演習にやって来たことを。

 大きな瞳の、頬の赤い可愛い子だったように思う。
そのときの見開いた瞳と、エオメルの瞳が重なり合った。
(ああ。あの時の少年が・・・)
そういえば以来ずっと、このロヒアリムは会うたびごとに、かれに控えめにつきまとっている。

 軍議の後、解散を告げられた将校たちが次々天幕の外に出て行く。
エオメルは他の者たちについていきながら、相変わらず視線でボロミアの背中を追っていた。
すると相手が振り向いた。心臓が一つ、大きく脈打つ。
ボロミアがかれに笑いかけている。
まともに相対するといつも目線をそらしてしまうエオメルだが、見つめたまま目が離せなくなってしまった。

 執政の長子が親しげに微笑みながら近づくと、ロヒアリムは困惑してその場から逃げたそうな様子を見せた。
会話はあたりさわりのない挨拶やら馬の飼育のことだったが、舞い上がった相手の顔が真っ赤に染まるのを、ボロミアはおやおやと思った。
この青年騎士は自分のことを余程買いかぶっているらしい。
(エオメル殿とはもう随分長い付き合いなのだ)
そう気づいたので、もっと親しく話し合いたいと思ったのだが・・・。
言いたかったことを口に出せないまま、ボロミアはその場を離れた。
しばらくして振り返ると、全身から汗を流してハァハァ喘ぐエオメルを、従兄がどつきまわしているのが見えた。

***

 それから数年の時がたち、マークの青空には暗い瘴気が入り混じるようになった。
後に大いなる年と呼ばれることになる、第三期最後の晩夏に、ボロミアが久しぶりにエドラスを訪れた。
ローハンの人々はかれが知る限りはじめて、ゴンドーリアンの訪問を歓迎しなかった。
いつも出迎えてくれるセオデン王が姿を見せず、黄金館は奇妙に打ち沈んでいる。
暗い表情の騎士たちは、客の処遇を扱いかねて迷惑そうだった。
かれは戸惑った。

 やがて騎士たちを掻き分けてエオメルが姿を見せたので、ボロミアはほっとした。
若い軍団長はかれの手をぎゅっと握り「お会いできて嬉しい」と告げた。
その瞳が涙にうるんでいる。
(今日は、わたしをまともに見てくださるのですな)
そうボロミアは思ったが、軽口を叩ける雰囲気ではなかった。
「色々至らなくて申し訳ない。客間にご案内します」

 エオメルの後をついていきながら、ボロミアは以前と変わらない−−だがまるで空気の変わってしまった黄金館の中を見回した。
回廊の柱の間から、黒い不吉な視線がかれを鋭く睨んでいる気がした。
思わず立ち止まると、エオメルが心配そうに声をかけた。
「どうなさいました」
「いえ。何でも」
柱の影には誰もいなかった。ボロミアはそう答えて歩き出した。

「すみません」
質素な客間に通され、荷物を置くとエオメルが再度謝った。
「行き届いていないもので、使える部屋はここくらいなのです。わたしのアルドブルグ館か、セオドレド殿下がいるヘルム峡谷ならもっと良い部屋を用意できるのですが」
「いや、十分ですぞエオメル殿。突然お邪魔してこちらこそすまなく思います。わたしはすぐ出立しますからおかまいなく」
ボロミアはいつもの笑顔で答えた。

「今回いらしたのは、何か御用がおありなのですか」
「ええそうです。わたしはこれから裂け谷に向かわねばなりません。長旅に耐える良い馬を借して頂こうとエドラスに寄ったのです」
エオメルは驚いて尋ねた。
「馬ならいくらでも差し上げますが。裂け谷とは・・・」
ロヒアリムはエルフとは没交渉に暮らしている。
かれらにとって裂け谷は遠い異郷だった。
「なぜそのような所に」
ボロミアはニコニコしたまま答えない。

「−−失礼しました、余計なことを」
そう言うとエオメルは「食事の用意をします」と告げて出て行った。
入れ替わりにエオメルの妹、エオウィンが大きな花瓶を抱えて入ってきた。
大輪の向日葵がたくさん生けられている。
部屋が明るく華やいだ。
「散りかけですが・・・ボロミアさまにお似合いだと思ってお持ちしましたの」
「これは有り難う、姫君」
卓上に置かれた花にボロミアが喜んで顔を寄せる。
エオウィンはその姿を眩しそうに見あげた。

 エオメルは近習に指図して客間に夕食を運ばせた。
食事は簡単な設えだったが、エオウィンが綺麗に着飾ってきたので目に楽しいものとなった。
精一杯お洒落した妹に、兄が「きばりすぎだ」と耳打ちする。
「乙女心がおわかりにならないのね!」
ぷう、と頬を膨らませて妹姫が囁きかえす。
その様子をゴンドーリアンはクスクス笑いながら眺めた。

「王子殿下ともお会いしたかったのだが、いらっしゃらないようですな」
「殿下はこのところ西マークの警備をしているのです」
エオメルが控えめに答える。
「エドラスにはめったに帰りません。セオ兄さまは黄金館は息が詰まると仰られて」
口を挟んだ妹を、エオメルが余計なことを言うなとひじで突ついた。
ボロミアは無言で兄妹に頷いた。
黒い塔の影響がこの国の宮廷にも及んでいるのだろう。
ローハンはいまやアイゼンガルドの脅威にも晒されているのだ。

 かれは詳しく訊こうと思わなかった。
かれ自身の都、ミナス・ティリスもまた、光と笑い声が失われて久しい・・・。
ボロミアの美しい顔が憂いに翳る。
その様子を見たエオウィンは慌てて明るい声をあげた。
「わたくし新しい歌を覚えましたの。ぜひボロミアさまに聴いていただきたいわ」
「やめろ。公害だ」
「まあ、お兄さまって本当に失礼なんだから」
やかましく言い合う二人の様子にボロミアの笑顔が戻った。

 何事か事情を抱えているらしい黄金館である。
長居は出来ないと、ボロミアは「翌朝すぐに出立します」と告げた。
だがエオメルはかれを引き止めた。
「ヘルム峡谷に伝令を出しました。昼すぎには殿下が到着すると思います。それまでいらしていてください」
「いや、セオドレドさまにご足労を願うわけには」
「殿下の許可があれば、一番いい馬を差し上げられます。どうかお待ちください」

 暗に自分の裁量では馬を出せないとエオメルは告げていた。
その表情は苦しげだった。
ボロミアはロヒアリムの肩に手をかけ少し力を込めた。
エオメルが驚いて顔を上げ、その頬が高潮する。
「わかりました。王子殿下をお待ちします」
そう答えると、エオメルは面映そうに目を瞬いた。

 月も出ない暗い夜だった。
夜半、ボロミアは寝台に横たわりながら、不安にざわめく胸をなだめていた。
空気が重苦しく圧迫されるようだ。
窓の外に時折、得体の知れない影が走る気がする。
ふいに斬りつけるような冷気があたりを満たした。
−−おぞましく、鋭い叫びが聞こえてきた。

「ナズグル・・・!」
ボロミアは震え上がった。
モルドールの呼び声に従う幽鬼たちが、リダーマークの地を駆け抜けているのだ。
恐怖が大地を蹂躙し、人知を超えた戦慄に勇猛なロヒアリムたちも竦んだ。
誰もが悲鳴を上げてベッドにもぐりこむ。
かれは掛け布を頭まで被って耳をふさいだ。

「ボロミア殿」
若者の声がかれの恐れを和らげた。
いつのまにか、枕元に剣を抱えたエオメルが佇んでいる。
ボロミアはほっとして毛布から顔を出した。
「大丈夫ですか」
かれは頷いた。
「やつらは近頃ひんぱんに、行き来しているようなのです。されるがままで口惜しい。このマークがあのような幽鬼などに」

 ボロミアは相手の腕に触れて制した。
「エオメル殿、あの者どもの事は口にしない方が良い」
エオメルはボロミアの目を見つめ、そしてその手を握り返した。
そして「あ」と思ううちに、ロヒアリムがゴンドーリアンのベッドに滑り込んできた。
大きな手が優しく、しかし強引にかれの口をふさぐ。
「お声を出されぬよう」
エオメルは素早く囁いた。その瞳が燃えている。

「わたしに逆らわないで下さい。あなたを傷つけたくない」
幼い頃の面影を残した顔が緊張に強張っていた。
だがもうエオメルは少年ではない。
二十も半ばを超えたたくましい男だ。
ボロミアが口をふさぐ手をそっと押しのける。
ゴンドーリアンは微笑んでいた。
「いついらして下さるのかと思っていましたぞ」
エオメルの瞳が見開かれ、「ボロミア殿・・・」とかすれた声が洩れた。

 ロヒアリムの指がかれの肌を丁寧に探り、愛撫した。
熱い身体の重みを受け止めながら、もし形だけでも逆らったなら、このロヒアリムはもっと乱暴に自分を犯そうとするのだろうか。かれはそんなことを考えた。
それはそれで刺激的な行為になるだろう−−腕の中のゴンドーリアンがそんな淫らな思惑を抱いているとは、ロヒアリムは気づくまい。
執政の跡継ぎは身悶えながら忍び笑った。

 が、エオメルの物が体内に押し入ってくると、さすがに息を詰めて緊張した。
「あッ・・・」
苦しくてのけぞった首筋に、唇が当てられ熱心に吸われる。
ロヒアリムは激しく腰を押し上げてボロミアを貪った。
「アッ、アアッ」
かれの喘ぎとエオメルの荒い息が混じりあい、寝台が軋みをあげた。

「ボロミア殿、ずっとあなたとこうしたかった。その瞳を、間近に見つめたいと思っていました」
エオメルが熱い声でかれに告げる。
「あなたは凄いほど魅力的だ」
ボロミアは相手の背中に爪を立てて縋りついた。
「ああ、いい・・・エオメル殿、そんなに奥まで・・・あぁっ、もっと・・・」
かれの望みどおりに、エオメルは突きたて揺さぶった。身体のすみずみを快楽が満たしていき、ロヒアリムの匂いが肌に塗りこまれる。
そしてかれらの心の奥には、何故かしら切ないような、哀しさがあふれてくるのだった。

 翌日すっかり寝坊して、陽が高くなってもベッドの中で抱き合ったままの二人だった。
若い身体に一晩中挑まれ、ボロミアは心地よい疲労に包まれていた。
「申し訳ありません。ボロミア殿の旅はまだ長いというのに」
エオメルがすまなそうに言う。
初めて触れた年上の人に夢中になり、相手の負担もかまわず何度も逐情してしまったエオメルである。
ゴンドーリアンは相手の長い金髪に指を絡ませると「思いがけなく、素晴らしい一夜でしたぞ」と甘く囁いた。

 昼すぎになってようやくかれらは起きだした。
身支度を整えたところに、近習がセオドレドの到着を知らせてきた。
ローハンの王子は、用件を知るとボロミアのために王族用の厩舎から見事な駿馬を引き出したのだった。
そして新しい鞍とムチ、乗馬用のブーツも揃えてくれた。
かれらは出立前に遅い昼食を一緒に摂ることにした。
セオドレドとエオメル、そしてまたエオウィンが食卓につく。

 姫君は昨夜とは違うドレスを身に纏い、髪を結い上げてキラキラ光る飾りをたくさんつけていた。やや装飾過剰である。
「イラっとするな・・・」
エオメルが思わず呟き、テーブルの下で妹に蹴りを入れられた。
ローハンを後にしたのちは、裂け谷に着くまでちゃんとした食事にありつく機会はあまりないだろう。
かれは親しい友人との時間を愉しんだ。
ロヒアリムたちも名残おしい気持ちでいるのか、かれらは長い間談笑し続けた。
空が赤みを増す頃、ボロミアはようやく暇を告げることにした。

「ご無事で、ボロミア殿」
差し伸べられたエオメルの手を執政の長子はしっかり握った。
「裂け谷の帰りにまた寄らせていただきますぞ」
「わかりました。お待ちしています」
相手の瞳はひたむきにかれを見つめていた。
セオドレドが軽く頷き、エオウィンが白い手を振る。
ボロミアは晴れやかな笑顔をかれらの胸に残して、メドゥセルドを去っていった。

***

「風が冷たいぞ、エオメル」
バルコニーに佇んでいると、背後から従兄の声がした。
そして耳元に息が触れ、身体に腕が回された。
ボロミアの姿が次第に遠ざかっていく。
高台に建つ黄金館は彼方まで見晴らすことが出来る。
またロヒアリムは視力に優れるため、ゴンドーリアンの馬に揺られる姿がいまだ小さく見えていた。

「ボロミアを見送っているのか。・・・ゆうべは、わたしがいないところで楽しい夜を過ごしたんだな?」
「さあ」とエオメルは答えた。
「これから白状させてやるぞ。夕食前にベッドに入ろうか」
そう言ってセオドレドが従弟の耳を噛む。
エオメルは肩を竦めたが、王子に身体を預けたままその場を動こうとしなかった。
ボロミアの姿を、この目に焼き付けなくてはいけない気がした。
完全に見えなくなるまでかれはマークの荒野から目を逸らさなかった。
セオドレドも強いて促そうとせず、かれを後ろから抱きしめている。

「もう日が暮れるな」
王子が呟く。
そしてエオメルは、いつのまにか頬に涙が伝っていることに気づいた。



20061022up