はじめ通信・子どもと教育のはた0602 うす闇の中を歩く子どもらにサーチライトを当てれば、子どもはさらなる闇にもぐってしまう ●長崎で再び子どもどうしの残酷な事件が起こりました。県の教育長が「去年の事件の教訓が生かされなかった」と述べたといいます。安易に昨年の幼児殺害事件と結びつけるのは、大きな誤りにつながると私は思います。二つの事件が同じ長崎県内で起きたことに直接の因果関係はなさそうです。残酷な事件をくりかえすまいと、大人の側に子どもを過剰に監視する勇み足が生まれないことを切に希望します。 ●ほとんどの子どもたちは、ある意味で意識して、うす暗闇の世界を歩いているように思えます。周りも自分もはっきり見えないような場所を歩きながら、時々、さっと明かりに照らされてはっきり見える現実の姿は、たいていの場合素敵なものではなく、いやになるほどグロテスクなことが多いからです。昨年の長崎の事件も、同世代の子どもらにとってそんな出来事の一つだったはずです。 ●県の教育長の記者会見で「心のノートを使って取り組んできたのに生かされなかった」という話も出たそうです。 事件が起きた後、周辺の子どもたちに心のケアが必要な場合もあるでしょうが、県がわざわざ悪名高い文部科学省の「心のノート」を強調したのが、気になります。 もし大人の社会や、ましてや行政が、安易に子どものいるうす闇にサーチライトを浴びせるようなことがあれば、子どもたちは、一見安全になるように見えて、実は丸裸の危険にさらされ、それを嫌がってもっと深い闇にまぎれてしまおうとするはずです。今度はサーチライトも効かなくなります。 ●今度の事件では、子どもたちはインターネットという大人の見えにくいところでつながっていました。そこでエスカレートしたトラブルを、自分で止められなかったのかもしれません。 子どものネット通信は、長崎でしばらく制限されるかもしれません。やむをえない場合もあるでしょうが、子どもにサーチライトを当てやすくして闇への退路を断つために行なうだけなら、子どもはもっと深い闇の手段を見つけ出してきます。 ●私は、子どもたちにとっていま必要なのは、ともし火ぐらいの小さな光でその子の足元を照らしながら、よりそってともにうす闇を歩く決意だと感じました。この問題は今後も発言を続けます。 |