はじめ通信・子どもと教育のはた0513 「ゆとり教育」からどう脱け出すか・激しくせめぎ合う2冊「教育が拓く未来」と「学力向上物語」 ●この春、書店に立ち寄り、ふと目に付いた2冊の教育評論書を購入しました。 それがたまたま、共通して文部科学省の「ゆとり教育」を批判する立場から書かれ、「学校教育では子どもの学力をいかに伸ばすかが重要」と主張している点でも共通の見地に立って書かれています。 しかしそこから先は、ゆとり教育の弊害は何が原因で、そこからどのように脱け出すのか、日本の学校は何を目指すのか、そのために教員はどうあるべきか、などについては、私が見る限り正反対の方向にあると思えました。 ●まず、櫻井よしこ著「教育が拓く未来・変わり始めた現場からの提言」は、ご存知、かつて「きょうの出来事」のキャスターとしてHIV感染問題の報道で名を馳せながら、今や新自由主義のオピニオンリーダーの名声高い人物が、日本の教育改革を現場から提言するという、極めて巧みに書かれた評論です。 まず著者は、今日の学級崩壊や不登校など数々の問題をゆとり教育の誤りに収斂させて描き、それを「方向転換し」「事実上否定した」遠山文科大臣の英断を大いに評価します。しかも、これを小泉首相がイラク戦争でアメリカ支持の現実的判断を下し、憲法改正も教育基本法改正も活発に論議される「国家らしい国家へと変わろうと」している流れと重ね合わせています。 ●著者にとって、ゆとり教育による学力不足の弊害は「すべての子どもの”平等”が強調され」たことにあるということです。そしてトップの大臣が変えようとしても、文科省内部から現場までねじれ現象で、学力のつかない指導要領と教科書が使われているというのです。 そして「日教組の抵抗」などと言って、「ねじれ」の責任の多くを教員側に押し付けることも忘れません。しかも、あとで紹介するもう一冊の著者であるかげ山英男氏を現場のパイオニアとして登場させ、現場で指導要領を踏み越えて学力向上に成功した彼の実践を評価しながら、それが証明されたのは「日教組の呪縛が解け」て全国一斉学力テストが行われたからだと強調。 さらにその後のかげ山氏の経歴を紹介しながら、彼が教員たちの抵抗で現場を去らざるを得なくなり、彼が去ったために山口小学校で「かげ山方式」が薄れてしまったかのように描き、さらには、かげ山氏を民間校長として受け入れたことに「大きく変わろうとする文科省の意図が見える」などと、徹頭徹尾文科省をかばい、教育の弊害の責任をいかに教員側に押し付けるかに腐心している様には、ほとほと感心します。 ●では櫻井氏は、子どもに学力をつけるために現場の優れた実践を応援するかというと、全く逆に、こう主張します。「文科省の変革への舵の切り替えは、遅きに失した面があるにしても、評価したいと思う。教育も強力な中央集権構造の中の営みであり、中央省庁としての文科省の意向は各教育現場に予想外の大きな連鎖反応を引き起こすと考えるからだ」と、学力問題で責任を免れないはずの文科省を免罪し、上からの強力な「改革」を行うことを期待します。そしてその実例として紹介されるのが悪名高き東京の人事考査制度です。 つまり、”「ゆとり教育」ではお互いに責任ある文科省と教員だが、学力重視に方針転換した行政側には、いまだに意識改革が出来ない教員側に対して中央主権的に「教育改革」を押しつける権限がある”という、とんでもない論理ではないでしょうか。 ●もちろん櫻井氏の「改革」論がこれで終わるはずがありません。 「しかし、まだ大きな問題が残っている。それは遠山前文科大臣が「学びのすすめ」のなかでも触れた、心の教育の課題である」と、いよいよ本音をむき出しにしてこう述べています。 「社会を見つめる力、前向きに日本を捉える視線を子どもたちの心に育てる試みは、戦後半世紀余り過ぎた今こそ、もっとも大切である。家族の絆が薄れがちで、故郷を大切にし、国を愛することを忘れたことから、多くの負の結果が噴き出ているいまこそ、最もふさわしい。教育基本法の改正と、学力向上の改革を両輪のように行なってこそ、教育改革も生きてくるといわなければならない。」 まさに著者の狙いがどこにあるかは明白というべきでしょう。 ●このあとも、著者は随所に自らかげ山氏を取材した記録を挿入させ、彼の発言を都合よくつぎはぎしながら活用しています。 そのほかにも、さまざまな教育家の授業実践も紹介されており、中には優れていると思われるものもあれば、素人の私が呼んでも胡散臭いとわかる歴史の授業など玉石混交です。 しかしいくらかげ山氏の学力向上の成果だけをうまく利用しようとしても、結局、さまざまな教育実践をつうじて子どもたちに何のための学力を着けさせるのかという点で、かげ山氏との決定的な違いをごまかすことは、やはりできないことを、実感しました。 それは、桜井氏の目指すのが、氏が言うところの「国家らしい国家」(=戦争の出来る)日本に都合のよい「愛国心」を持って貢献してくれる人材を育てることであるのに対して、かげ山氏は、教育の目的を何よりも個人としての社会的成長と、平和で民主的な社会の構成者となることを目的としている教育基本法の精神にたっていることです。 ●かげ山英男氏(外字変換が出来なくて「かげ」の字が書けずスミマセン)の「学力向上物語」は、「本当の学力をつける本」などで余りに有名になった後、なぜ山口小学校を去り、広島県の、それも民間校長募集の文科省のモデル校に飛び込んだかの経過を書いたものです。 この本は、ぜひじっくり読んでいただきたいので、詳しい紹介は避けますが、私はいまの時代に子どもの人間的な成長を最優先に考えて教職に取り組むとき、学力をのばすのは最大の課題だし、その本質は「学校とそこでの勉強が好きになること」だという発見を改めてした思いです。 その一方で、「学力向上」だけを技術的に追いかけていこうとすると、”競争と差別”とか、”教師のカリスマ化”という大きな甘い陥穽が待っていること、わなにはまれば、櫻井氏の示す方向に流されていくのは明らかで、かげ山氏がいかにそのわなを避けるために苦労してきたかも知りました。それでも、多くのマスコミは、彼をカリスマ教員扱いしたがっています。 ●たくさんの共感する記述の中で、つぎの箇所だけ紹介します。 「先述したように、山口小学校は1学年が50人ぐらいで、2学級でずっと来ていました。そのため、1学級の児童数は20人から30人で安定していたのです。学級の児童数が30人を切ってくると、子どもの生活や学力の状態をいつも頭の中で憶えておくことが出来、子供に合わせて適切なアドバイスをすることができるようになります。それがさすがに少子化で、最近は二学年が40人近い単学級となり、やがて全学年がそうなってきます。これがいままでのように、子どもたちを細かく見ていく指導を継続するのに最大の障害となってきており、全国的に名が知られたこととの狭間で、苦悩する場面が増えてきました。ですから30人以下学級というのは、私たちにとって悲痛な願いでした」。 かげ山英男という教員に、私は一面識もありませんが、われわれが苦労して切り開こうとしている、教育と学校をめぐる国民的な合意づくりの流れと、おそらく合流して行くべき人なのだという確信を持ちました。 |