思うこと 第197話 2007年4月1日 記
日野原先生の講演の迫力に聴衆感動
昨日、聖路加病院の日野原先生をお迎えして、市民公開講座が開催された。
1年半ほど前に、このお願いをしたところ、日野原先生はお忙しい日程の中で、納君の定年退職の日に行われるのだから、何としてでも鹿児島に行くよ、と約束してくださった。 ご講演の日は一泊してゆっくりしていただくようお願いしたのであったが、前日も翌日も日程が詰まっていて、日帰りでとんぼ帰りされるとのこと。
私は、JALの朝の1番便で到着される日野原先生をお出迎えするために鹿児島空港のEXITでお待ちした。
先生は3人の秘書をもっておられるが、秘書を伴わず一人でこられた。秘書を連れてこられなかった理由は、秘書を連れてくると、『日野原が若い女性と旅をしていた』と噂になるのがいやなので、とのこと。私は、その言葉に、先生は、ご自身を“若い青年”と思っておられることを知り、感銘を受けた。
私は、空港から城山観光ホテルに直行した。
この日だけは、三宅美術館を休館にしていただいて、全ての展示物を城山観光ホテルに移動し、『城山会場(一般入場可)』を設営していたからである。
私は先生に私の絵を観ていただけ、幸せであった。
この後、市民文化ホールに向い、まず、私(納)が、日野原先生の前座を務めさせていただいた。
私の講演と日野原先生の講演との合間に、第2会場で同時放映の映像しか見れない方々に、日野原先生をお連れして、一言ご挨拶していただき、第2会場の方々に喜んでいただいたのであったが、このようなことは長い日野原先生の講演活動の中で始めての出来事であった、と先生は聴衆にお話された。
座長は井形先生(右端し)で、後ろのスクリーンには日野原先生の姿が大写しされているが、この映像と音声が第2ホールでも写されるので、殆ど遜色なく先生のお話を聴いていただけたのである。先生は、時に、傍らのオーバーヘッドプロジェクターを使われたが、
大半の時間は、せり出し舞台の上を時には縦横に歩きながら、
あるいは、最前面まで来て語られ、
1時間10分の講演の間中、聴衆を魅了し続けられた。
日野原先生は、このわずかな時間に実に多くのメッセージを私達に伝えてくださった。特に力を入れて話されたことは、若い世代に語り継いでゆくことの大切さであった。10歳の子供でも、上手に話せば大事なことを完全に理解すること、だから、大人は、率先して語る必要があること。 命の大切さを語ることが大事。 戦争は絶対いけない、あの悲惨さを知る世代は、死ぬ前に、次世代に語り継ぐ責務がある。 中国本土で日本軍が行った極悪非道の行動、中国の妊婦のお腹を銃剣で突き刺すなどの行為が、当たり前のようになされたこと、戦争が、人間の感性を狂わしてしまうこと、戦争を絶対に阻止する必要があること、今、憲法を変えて、戦争を可能にしようというとんでもない動きが起こりつつあるが、絶対その動きを阻止しなければならないこと、などを熱く熱く語られた。65歳の私よりもお若くみえるほどの、迫力で、私は圧倒された。
日野原先生の講演の終了直後、まだ、先生への大きな拍手が鳴り止まない時、私は舞台に上がり、マイク片手に先生の横に立ち、『皆さんに、嬉しいお知らせがあります。私は、日野原先生に、次のお願いをしました。「5年後、先生が100歳になられた時、私は70歳ですので、この同じ場所で、また2人で講演会をしましょう」とご提案したのです。日野原先生は、ご快諾されました。』 私のこのアナウンスに会場の方々から大きな拍手をいただき、日野原先生も嬉しそうに手を振って答えられたのでした。先生は『5年後は私も楽しみだ。私は100歳を元気で迎えるという目的があるから、自分の健康管理に細心の注意を払っているのです。私は、5年後、必ず元気で鹿児島に来るから、納君、君も、それまで、健康に注意して元気でいてください。』との言葉を残されて鹿児島を後にされたのであった。
私にとって、本当に、感動の一日であった。