思うこと 第160話           2006年10月28日 記       

パプア・ニューギニア、ソロモン巡回診療報告ーその13ー
いよいよマダンに向けて飛ぶ

今日午後、ついにマダンへ向けて飛び立った。私は前方右窓側座席に陣取った。理由を説明するため、空路の地図を示す。

この黄色の矢印が空路である。私にとってこの空路最大の撮影目的はラエとサラワケット山脈を撮影することであった(だから、前方右窓側座席に陣取った)。“何故ラエとサラワケット山脈か”の理由はこの下図の2つの本にある。

左側の本の著者、間島 満氏も右側の本の著者佐藤 弘正氏も、ラエからマダンに向けてサラワケット山脈(海抜約4000メートル)を越えての飢餓地獄の転進とその後に引き続いた地獄の退却生活から奇跡的に生き残られた御2人であり、その地獄絵の記録を読みながら私は体が凍てつく思いであった。私は、息を殺して飛行機の窓から変わり行く景色を観察し続け、ラエとサラワケット山脈を探した。そして、決定的写真を撮影することに成功した。まずは、その写真の上に私なりの説明を施したものを下に示す。

薄雲がかかっていたのでやや鮮明さを欠くが、巨大なマーカム河が海に注いでおり、ブス河口もはっきり見えるのでこの間の地域がラエに違いないと思われた(後で、マダン到着後、このあたりに詳しい方にこの写真を見てもらい、ラエの場所を再確認していただけた)。広角カメラで撮影したのでラエの後方に横たわるサラワケット山脈の全容も撮影できた。長く横に延びた山頂は雲の上に頭を出していた。ラエの部隊は度重なる米軍の攻撃にすでに疲弊していた(米軍は昭和18年6月にはラエの南側に上陸し、完璧な基地を構築していおり、制海権、制空権もすでに完全に米軍の手中にあった。昭和18年9月4日に豪州軍がラエの北側に上陸、翌9月5日には豪州軍がマーカム河南側に進撃すると同時に、マーカム河北側平地も豪州軍落下傘部隊により占拠され、ここでラエ包囲網が完成したのであった。ラエの日本軍は、すでに、海軍陸戦隊は全滅し、横山隊も全滅、日本軍は連日の猛烈な空からの絨毯爆撃と海上からの艦砲射撃に身も心も極度に疲れ果てていた。武器弾薬はもとより食料の補給もなく、飢えに飢えた日本兵の残兵集団である第51師団はその時総数8000名に減っていた。そこに届いた歴史的軍指令命令は、『師団は万難を排しマダンに転進せよ。武運長久を祈る』であった。完全包囲網の中にあった第51師団にとって、選択肢は一つしかなかった。それは、ラエの後方に立ちはだかる海抜約4000メートルのサラワケット山脈を越えるという殆ど不可能に近い賭けに挑むことであった。師団糧秣廠に残されていた全ての食料が8000人の将兵に分配されたが、一人当たり白米5升程度のわずかな量であった。久しぶりに目にした白米に、これで最後に白米を食って死ねる、とつぶやいた兵もいたとのこと。昭和18年8月14日、8000人は一列になって月明かりをたよりにサラワケット山脈に向かって黙々と行軍を開始した。山を越えた麓のキアリまでの距離は150キロであるが、幾つもの山を越えるので実行程は400キロに及び、実に1ヶ月余りの日数がかかっている。
ここで、山頂付近の写真を撮ったので示す。

峰の向こうにさらに峰があり、これを越えていった将兵の辛苦はいかばかりであったろうか。
飢餓と4000メートルの寒さのため将兵は一人また一人と倒れ、キアリに着くまでに実に2500名の兵士が山中に死んで横たわったという。そのキアリからマダンまでさらに徒歩で400Kmの地獄の逃避行が待っていたのであるが、そのマダンとて、米豪軍の猛攻を受け、将兵の地獄は終戦の時まで続いたのである。かくして、かっては20万以上を数えられた東部および中部ニューギニア部隊の将兵は、終戦時にはわずかに一万人余りとなったのである。すなわち、20万余りの将兵のうち約19万人の将兵が地獄の苦しみの中で死んでいったのである。これが誰の責任で起こったのか、この惨事を防ぐ手立てはなかったのか、については、いずれ、この一連の報告書の中のどこかで、もっと時間のとれる時に触れることにする。
さて、一時間の飛行の後、機の窓から、マダンの町が見えたので、今日はその写真をお見せして稿をしめる。