思うこと 第157話           2006年10月27日 記       

パプア・ニューギニア、ソロモン巡回診療報告ーその10ー
故・豊島文雄伯父のパプア・ニューギニア戦地からの生還の記録

 今回の『外務省巡回医師団』太平洋IIチーム(パプア・ニューギニアとソロモン)に私が参加したいと思った原因の一つは、私が敬愛してやまない故・豊島文雄伯父(私の母の兄。私の亡き父の大学時代の親友で、両親結婚の縁結びをした私にとって誕生の恩人)が、戦友が全員玉砕したパプア・ニューギニアから唯1人生還し、その後、私たちにくりかえし言っていた『自分の同僚は皆戦死した。自分一人生き残ったからには、体を粉にして、死んだ同僚の分まで社会のために滅私奉公する。』の言葉が強く心に焼き付いていたからであった。事実、社会悪との戦いの先頭に立って、いつ殺されてもいいという気迫のオーラがただよい、つぎつぎと難問を解決していった。仕事の面では、開業していた豊島外科病院を発展させるかたわら、鹿児島県医師会長と鹿児島県教育委員長の2つの要職を長年勤め上げ、両方ともまさに一世を風靡する歴史的な活躍をし、20数年前に歿した。今回の出発の直前、私は、伯父の一人息子で、現在豊島病院の理事長として父親同様各方面で活躍している豊島 忍先生に『パプア・ニューギニアに出張する機会に、伯父さんの当時を語った記録はないだろうか?』との問い合わせをした結果、残された貴重な記録があることを知った。豊島 忍先生も、今回新たに読み返して、感極まったとのこと。私も、読んで感動し、ぜひこの全文を私のHPに掲載し、多くの方々に公開するさせてほしいとお願いしたところ、快諾を得たので以下にアップする。

記録は鹿児島県医師会の戦争体験を持つ同志で作成された小冊子であった。

伯父の記録の1ページ目を示す。


今回の私の巡回行程とこの記録に出てくる地名とを並べて示す。


ブナは日本軍基地の名前であり、現在の地図には記載がなかった。
では、伯父の冥福を祈りつつ、その全文を以下に掲載する。

戦争体験の記録
豊島文雄

はじめに
昭和七年四月、第七高等学校造士館から、九州帝国大学医学部に入学した私は、同年七月十五日付で海軍々医学生に採用され、官費で同大学を卒業、昭和十一年四月十日海軍々医中尉に任官、爾来所謂職業軍人として、上海事変、支那事変、大東亜戦争、終戦、復員までまる十年間、大日本帝国海軍の得意の絶頂から失意のどん底までを体験した。資料の殆んどすべてを東京空襲で焼失してしまっている現在、正確さを欠く点の多々あることは遺憾であるが、折角の機会であるので、特に鮮烈に記憶にのこる幾つかのことがらについて記録にとどめることとした。

一、私の初陣
人間誰でも、初めての体験は、一生を通じていつまでも忘れることは出来ないものである。
「豊島中尉、出動、出動」と大声をはりあげながら、トントン、トントンと玄関の戸をたたく者がある。出てみると当直士官の大月軍医中尉であった。「おめでとう、貴様は上海方面へ出動だ、直ちに北上(第三水雷戦隊旗艦)に乗艦せよとの命令だ」。昭和十二年七月十一日午前四時のことである。当時私は新婚ホヤホヤで、大月中尉ら五名の同期生とともに、佐世保海軍病院に勤務していた。私が二十五歳、妻道子は二十歳であった。かねて覚悟の出陣である。直ちに行水して身をきよめ、軍装に身をかためて妻に別れを告げた。「では行ってくる、お元気で……」。妻は私の足元に泣きすがって離そうとしない。帝国軍人の妻たる者が何事だ、その手を離せ……」、私は妻の心情をいとおしみしながらも、心を鬼にして蹴とばすように勇躍出陣したものである。

二、上海陸戦隊の激戦四十日
私の乗艦「北上」を旗艦とする第三艦隊第三水雷戦隊は、苦戦を続ける上海陸戦隊の本隊を支援するため、一個大隊約五〇〇名の派遣陸戦隊を編成、昭和十二年八月十六日上海に上陸、一〇〇米乃至二〇〇米の至近距離の敵と対向する最前線に展開した。
私は、この派遣陸戦隊の医務隊長として、部下約三〇名を指揮し、死傷者の収容、応急処置を担当した。昼夜を分たず砲煙弾雨のとびかう激戦が続いた。味方の将兵も次々に戦死し、重軽傷を負った。私の直属の部下も二名戦死し数名負傷した。上陸以来激戦四〇日、敵も漸く後退しはじめたので、私達の派遣陸戦隊は支援任務を終り、それぞれ所属の艦艇に引揚げたのである。
ところで、この激戦のさなかに起きた忘れ得ぬエピソードが一つある。ドイツ人商社の社員三名が、ドイツ国旗を立てた乗用車に乗り、無謀にも日本軍陣地を突破して敵陣地へ向って走り出したのである。「危い」という間もなく敵の機銃掃射を浴びて立往生、乗っていた三名のドイツ人も負傷し、転げ落ちるように車外に脱出、大声で救いを求めているではないか。私は、馬鹿者どもがとあきれかえりながらも、国際親善の立場から、直ちに決死の担架隊を出動せしめてこれを救出、応急処置を施して陸戦隊病舎に後送した。
このことが、国際美談として翌日の新聞で大きく取りあげられ、「決死の担架の豊島軍医長、ドイツ人三名を救う」との見出しで報道されたものである。

三、南支沿岸封鎖作戦(ジャンク狩り)
 昭和十五年十月十五日、私は第二二駆逐隊軍医長に任ぜられ、駆逐艦長月に乗艦、約一年間まことにのんびりした南支方面の海上封鎖任務に従事したことがある。来る日も来る日も、広い南支の海上を、西へ走り東へ走り、北へ上り南へ下って、東南アジア各地から南支沿岸へ敵の軍需物資を運ぶジャンク船を見つけ次第「ピーッ」と汽笛を鳴らして停船を命じ、接舷して処分することが私達の任務であった。軍需物資の主なものは、ガソリン、灯油、ゴム、米、麦粉、野菜、果物、綿布、それに紙幣などであったが、これらを全部没収し、帆柱を切り倒し、航行不能にして釈放するのである。
ジャンク狩りで今でも思い出し笑いを禁じ得ないことがある。若い女性は必ずといってよいぐらいに、護身のためであろうか、顔いっばい「鍋へぐろ」を塗っているではないか。
然し、これはまだ愛橋があってよい方だが、なかには老女が股間の入れ物に、紙幣を東ねてねじ込んでいたことに至っては、いくら戦時中とはいえ、いかにも艶消しで、物のあわれを感ぜざるを得なかったものである。えらいところにかくし場所を考えついた女も女だが、それをさがしあてた兵隊も兵隊である。

四、大東亜戦争における私のマラリア作戦
 戦争体験の記録を書けといわれれば、私には、これだけはどうしても書きのこしておきたい、いや、書きのこしておかなければならないと思うことが一つある。ほかでもない、大東亜戦争における南方戦線で、私が体験したキニーネの予防内服によるマラリア作戦のことである。

1.再び陸戦隊軍医長となりニューギニア戦線へ
 昭和十六年十二月八日大東亜戦争の火蓋は切って落され、破竹の勢いを続ける帝国海軍の戦線は、遂にニューギニア方面にまで拡大されようとしていた頃、佐世保海軍工廠医務部員として、脾肉の嘆をかこっていた私は、昭和十七年五月十五日、佐世保海軍第五特別陸戦隊軍医長に任命され、遠く赤道を越えて、ニューギニア攻略の壮途につくこととなった。
支那事変でも真先に派遣陸戦隊軍医長として上海の激戦に参加、大東亜戦争となって再び陸戦隊軍医長に任命されたのである。余程私は陸戦隊向に出来ていたのであろう。
海軍の陸戦隊といえば、米国の海兵隊と似たようなもので、艦艇の機動力を利用して、バタバタッと敵前上陸して陣地を占領し、あとは後続の陸軍部隊にゆだねることが本来の任務である。従って、その隊員には、どちらかといえば、「向う見ずな元気者」といったタイプの人が多かったように思う。
 私は柔道五段、現在の私を知る人達にはおよそ想像もつかないことかも知れないが、青年士官時代、佐世保鎮守府や艦隊における准士官以上の個人戦で、前後三回も優勝して長官賞を貰ったこともあり、ポカポカッと手のはやい元気者の軍医長で通っていたことなどから、このようなことになったのであろうと、当時を追想して苦笑せざるを得ない。

2.大量のキニーネと重曹を搭載
さて、私が軍医長に任命された佐世保鎮守府第五特別陸戦隊は、佐世保海兵団で陣容を整え、約一ケ月間の訓練のあと、司令月岡寅重中佐以下約一、五〇〇名が、五隻の輸送船団に分乗、同年六月十八日佐世保軍港を出発、一路ニューギニアへ向って南下した。
私は、出発に先だって、佐世保海軍病院から、大量のキニーネと重曹を受取り、各輸送船に搭載した。ニューギニアは、南方でも有名なマラリアの猖獗地であり、ニューギニア作戦に勝つためには、是が非でも、マヤリア作戦に成功しなければならないと考えたからである。
ここで私は、キニーネのほかに大量の重曹を搭載した理由について述べておかなければならない。
昭和十二年十二月一日から約六ケ月間私は、南支方面で作戦中の特設水上機母艦香久丸乗組として勤務していた。このとき私は、同艦の軍医長新垣安和軍医大尉(故人)から、マラリア感染防止のためのキニーネ予防内服実施にあたっては、二%重曹水で服用させるこどが、胃腸を保護することにもなるし、最も効果的であることを教えられていたからである。
新垣軍医長の二%重曹水による服用法は、九大の小野寺教授や印度のシントン博士等の唱えておられたマラリアに対するキニーネ・アルカリ併用療法にヒントを得られたものらしいが、同教授等の併用療法は、キニーネ服用三十分前に重曹を内服することになっていたのを、これは繁雑で戦地向きでないとして、二%重曹水で同時に服用することに改良されたものと思われる。
新垣軍医長は、同艦の搭乗員が、艦内の熱気による疲労を避けるため、銅澳島という小島の海岸にキャンプしていた際、これらの搭乗員に対し、キニーネ予防内服を実施されたのであるが、同軍医長は実験的に全員を二群に分け、第一群には清水による内服法を、第二群には二%重曹水による内服法を命ぜられたのである。
ところが、第一群からは次々に多数のマラリア患者が発生したのに対し、第二群からは殆んど発生を見なかったというものである。
この実験の結果から、新垣軍医長は、キニーネ・アルカリ併用療法は、なにも三十分前に重曹をのませなくても、二%重曹水により同時に服用しても、その効果に変りはないことをつきとめられ、作戦地における最良の方法として、二%重曹水による服用法を提唱されたものと思われる。

3.二%重曹水で服用すれば、キニーネは全然苦くないことを発見
斯くして、私達佐世保鎮守府第五特別陸戦隊(以下佐鎮五特という)の隊員を乗せた輸送船団は、めざすニューギニアへ近づいた。パプア島ブナ敵前上陸の二日前、昭和十七年七月二十一日から、キニーネの予防内服を開始することとなった。 私は予防内服開始にあたって輸送船の食堂に集った佐鎮五特の准士官以上に対し、予防内服の作戦上の意義と二%重曹水で服用すれば、胃腸の保護にもなるし、薬効も高くなることなど、新垣軍医長の研究結果をおりまぜて説明した。ニューギニアはマラリアの猖獗地であるがキニーネをのんでおればマラリアにかからない。然しこのキニーネは非常に苦い薬であるので、隊員に服用を励行させることが極めて大事であり、それには准士官以上の諸君が率先励行することが肝要であると強調した。
医務隊員が准士官以上全員の湯呑に二%重曹水を注いでまわり、塩酸キニーネ錠を配給した。いよいよ第一回予防内服の開始である。
私も、二%重曹水で塩酸ギニーネをのんでみた。ギニーネをのんだのは生れて初めてであった。ととろがである。今が今まで猛烈に苦い薬だとばかり思っていた塩酸キニーネがちっとも苦くないではないか。これはおかしい。
私は看護長を呼び、今配った薬は塩酸キニーネに間違いないかきいてみた。間違いありません。このとおりですと看護長が持ってきた容器のレッテルを見ると、まさしく、塩酸キニーネ錠、海軍療品廠と書いてある。この瞬間、私の頭の中にピカッとぴらめくものがあった。さてはこの二%重曹水には塩酸キニーネの苦味除去作用があるのではないかということである。私はボーイを呼びコップに清水を入れて持って来させ、塩酸キニーネ錠をこれをのんでみた。猛烈に苦い。次に二%重曹水を口にふくんでみた。すると苦味がパッととれたではないか。
私が二%重曹水で服用すれば、キニーネは全然苦くないことを発見した歴史的瞬間であったのである。
そこで私は、このことを全員に発表し、はじめの注意を訂正するとともに、再び全員に二%重曹水、清水、塩酸キニーネ錠を配り、私が体験したことを准士官以上各自にも体験させたものである。
新垣軍医長の南支銅漢島における実験で、二%重曹水で服用した群からマラリア患者が出なかったのは、苦くなかったから、服用が励行されたためであり、清水で服用した群からマラリア患者が多く出たのは、猛烈に苦かったため服用が励行されなかったためではなかったか、つまり、のんだか、のまなかったかの差であったのではと私は推察したのである。新垣軍医長はマラリア蚊のいない艦上生活であり、自分自身では二%重曹水で塩酸キニーネを服用する機会がなかったため、この神秘的事実、に気づかれなかったのであろうと惜まれてならない。

4.九死に一生を得て内地帰還
さて、敵機の爆撃以外さしたる抵抗もなく占領した。ブナ基地に約一ケ月滞在の後、月岡司令の率いる佐鎮五特の本隊約六〇〇名は、同年八月二十五日早朝、九隻のダイハツに分乗して同基地を出発、パプア島最南端のラビ飛行場攻略に向った。途中私達は、ラビの手前約六〇浬の地点にある、一〇〇人足らずの土人しか住んでいないグッドエナフという小島に立寄り、九隻のダイハツを海岸に達着せしめて全員砂浜にあがり、同夜横鎮一特、呉鎮一特と呼応して行なわれる予定であったラビ飛行場の夜襲に備えて二食分の弁当を炊いていた。丁度この時のことである。午前十一時五分、敵戦闘機(P40)十一機がどこからともなく飛来して、輪形陣を描きながら、約四十五分間にわたり、次から次へと急降下して機銃掃射を繰返した。武器、弾薬、治療品、食糧を満載した九隻のダイハツがまたたく間に全部爆発炎上した。次は砂浜にちらばっていた兵員めがけて突込んで来た。軍医長、軍医長と叫ぶ声があちこちできこえた。多数の兵員が死傷したのだ。五分もたたないうちに今度は私がやられたのである。右手に軍刀を握り、右膝を地面について左膝を立て、敵機が突込んで来る方向に体を傾けて、なるべく弾に当らぬような体位をとっていたのであるが、敵の十三粍機銃弾の一発が、私の鉄カブトの左縁をかすめて左膝に命中、無念、残念、私はついに何の役にも立たない軍医長となってしまった。
約四十五分後、敵機は弾を打ちつくしたものか、いづこへともなく飛び去っていった。月岡中佐の率いる佐鎮五特の本隊は斯くして敗残部隊となったのである。
銃と銃弾三○発、包帯小包一個だけとなったこの敗残部隊は、山の中に逃げ込み、ジャングル生活をはじめた。隠密作戦であったため、私達のこの日の行動は、ラバウルの司令部にも、、ブナ基地の留守部隊にも連絡されていなかった。無線機もダイハツ内で焼かれてしまったので連絡の方法がなく、孤立無援の状態となった。
土人を島外に追っぱらい、土人がつくった芋、野菜、ヤシ、野草、へビ、ネズミにいたるまで手あたり次第に口にした。治療といえば、各自が携帯していた包帯小包だけである。
傷口も塩水で洗って包帯するだけであるから次々に化膿した。ほとんど全員がマラリアやアメーバ赤痢にかかり、このままでは全員死を待つばかりとなった。
約一ケ月たった頃。沖縄出身の隊員二名が、土人のカヌーで。ブナ基地まで連絡したいと申し出た。月岡司令はこれを許可し、九日目に連絡に成功した。私達の敗残がブナ基地からラバウルの司令部に連絡され、駆逐艦「きさらぎ」「やよい」を救出のため派遣するから待機せよとの通信筒が飛行機からジャングルに投下された。一同歓喜した。然しこの二隻の駆逐艦は途中で敵機に発見され撃沈された。水上艦艇による救出は最早や困難と見たラバウルの司令部は、伊1 号潜水艦を救出に向わせた。私以下重傷病者六○名がこの潜水艦で救出され、ラバウルの海軍病院に収容された。数日後私は、病院船氷川丸で横須賀海軍病院に後送され、九死に一生を得て内地帰還の身となったのである。
あとできいた話であるが、私達重傷病者六○名を救出してくれた「イ1号」潜水艦は二回目の救出に向う途中敵機に撃沈され、私達が同潜水艦に救出された十日後には、グッドエナフ島に、味方に十倍する敵機動部隊が上陸して来て、伊1号潜水艦が第一回の救出の際おいていったダイハツ一隻で脱出に成功した月岡司令以下木部隊員数十名以外は全員この島で玉砕したとのことである。
私が負傷した時、軍医長、しっかりして下さい、傷は浅い、大丈夫です、と激励しながら私をかかえあげ、胸まで泥水につかってクリークを渡り、森の中まで運んでくれた岩見大尉、島津兵曹長等四名の将兵も皆この島で玉砕、月岡司令や私の代りに水上機でグッドエナフ島に着任した穂泉軍医長も、ダイハツで脱出後にラバウルで佐鎮五特を再編成して、ラエ、サラモアに転進され、昭和十八年七月頃ここで戦死されたときいている。感慨うたた無量、衷心からご冥福を祈って止まない。

5.重曹水による塩酸キニーネの苦味除去機転とその薬効に及ぼす影響に関する実験的研究
昭和十七年十一月から約一ケ年半、私は新設の東京海仁会病院の外科に勤務することとなった。この病院は在京の海軍々人並びにその家族を診療する病院であった。病院のすぐ前に官舎があり、私もそこに移住した。開院早々で患者も少なく割合暇であったので、私は海軍々医学校の防疫学教室の官尾教官、内科学教室の金井教官、薬理学教室の村原教官等のご指導の下に、重曹水で服用すれば塩酸キニーネの苦味が何故除去されるのか、良薬口に苦しという言葉もあるし、苦くなくなったキニーネはマラリアに効かないのではないかなどについて、理化学実験的、動物実験的並びに臨床実験的研究に取組んだ。私の研究は、泰山院長(軍医少将)、野村外科部長(軍医大佐)、海軍々医学校、海軍省医務局の深いご理解とご協力ご指導の下に極めて順調にすすみ、次のような結論に達することが出来た。
@ 約二%重曹水でキニーネやアテブリンを服用すると全く苦味を感ぜしめない。
A これは塩酸キニーネ、硫酸キニーネ、アテブリンの酸の分子が重曹と中和して、キニーネ塩基或はアテブリン塩基を遊離し、この遊離せられたキニーネ塩基或いはアテブリン塩基は重曹によって塩析せられている状態にあって、重曹水に溶解し得ないためである。
B 鳥マラリアについて実験を行い、重曹で苦味を除去しても、キニーネ或はアテブリンの効力は変らない。
C 三日熱マラリア患者について、二%重曹水でキニーネやアテブリンを苦味なく服用させた場合の薬効は少しも減殺せられない。
D 両面を重曹で包んだキニーネ或はアテブリンのサンドウィッチ式錠剤の試作に成功し、これは水又は単に唾液のみで苦味なく服用出来る。
私のこの研究は、南方作戦上極めて重要な資料であるとして、軍極秘の取扱いを受け、海軍軍医学校から海軍省図務局へ報告された。そして、その年の恩賜研学資金受賞の第一候補に推されることになっていたが、敗戦でうやむやになりその後なんの音沙汰もない。
然しながら昭和二十二年九月、私の母校九大医学部教授会でこの論文がパスし、学位を受けることが出来たのはせめてもの幸いであった。
E セレべス島ケンダリー基地に於ける私のマラリア作戦
昭和十九年四月一日、私は第七五三海軍航空隊軍医長を命ぜられ、セレべス島ケンダリー基地に着任した。私が着任した頃、この航空隊にはまだ数十機の飛行機があったが、戦況の悪化とともにその殆んどを失ったために廃隊され、濠北航空隊と改称、飛行機を持たない基地航空隊に変身した。私は同年七月十日引続きこの航空隊軍医長に任命されたのである。
さて私は、このケンダリー基地で、前記東京海仁会病院に於ける実験研究の際、重曹による苦味除去が塩酸キニーネの尿中排池速度及び排泄持続時間に及ぼす影響を測定するのに使用した加里沃度汞試薬」を利用して、マラリアに対するキニーネの予防並びに治療内服を徹底せしめるため、私独特の方法を考案実施した。加里沃度汞試薬の製造法は次のとおりである。
第1液 沃度加里 10.0  蒸留水50.0
第2液 昇 汞  2.7   熱湯 150.0
実施にあたっては、第1 液と第2 液とを混合して、氷醋酸2.5 竓を加える。
経口的に投与されたキニーネの吸収は、極めて少量は胃の中で、大部分は腸管内特に小腸内で行なわれ、吸収されたキニーネは門脈から肝臓を経て全身を循環し、この聞に主として肝臓、牌臓、筋肉内に固定せられ、残りの大部分は尿中に排泄せられる。尿中に排泄せられる速度は大体一時間目頃から始まり、二十四時間目頃には殆んど完了する。
試験管に約五竓の尿をとり、これに上記の試薬を数滴滴下すると、キニーネが排泄されておれば、白濁して、約二○倍の敏感度、つまり0.0005 %のキニーネを証明することが出来るのである。
 私がケンダリー基地に着任した頃は、毎日朝食後一回予防内服を実施していたにもかかわらず、隊員の中にも多数のマラリア患者が発生していた。病室に収容している患者でさえも、キニーネの苦味を嫌って服用が励行されない状況であった。
そこで私は、全隊員に対し、二%重曹水によるキニーネの予防内服を実施するとともに、抜打的に加里沃度汞試薬により、ほんとうにのんでいるかどうかを検査したのである。
 第一分隊は二○名であったとする。キニーネ内服後二乃至三時間後に一人残らず全員を一列に並らべ、看護兵曹が各自に試験管を渡す。まわれ右して試験管に尿をとらせる。とったら再び正面を向かせる。今朝キニーネをのんだものは右手をあげッと号令すると、ハイッと全員右手をあげる。この試薬を一滴入れると、キニーネをのんだものは尿が白く濁る。のまなかったものは濁らないのですぐわかる。嘘をついたものはコレだと拳を握って見せる。こう説明して今一度手をあげなおさせる。
 まさかと思うのか再び全員手をあげる。看護兵曹に次々に試薬を滴下させる。濁る、ヨーシ、濁らない、ポカッ、濁らない、ポカッ、濁る‘ヨーシ、結局半分ものんでいない。悪事千里を走る。その日のうちに全隊員に伝わった。今度の軍医長はだまされんぞ。手品みたいな、不思議な薬を持っているぞ−・・… という具合である。
私の作戦は美事に成功した。予防だけでなく、患者の治療内服の徹底にも著効があったこというまでもない。
二ケ月たらずで、ケンダリー基地のマラリア患者は十分の一に激減した。
そこで私は、このことを昭南(シンガポール)のセレター軍港にあった第一○方面艦隊軍医長に報告した。同艦隊司令部では私の報告を重視したのであろう。昭和二十年五月一日、私は同艦隊司令部に配転され、同艦隊のマラリア作戦を担当することとなったのである。
F 第一○方面艦隊司令部に於ける私のマラリア作戦
第一○方面艦隊司令部は、東南亜細亜全域の海軍部隊を統轄していたものであるが、マラリア患者の多発にはほとほと困り果てていた。
 私の考案したマラリア作戦は福留司令長官、朝倉参謀長、佐藤軍医長に認められ、私が起案した電文が、そのまま軍極秘の艦隊命令として全部隊に打電されたのである。
八月十五日終戦までの約四ケ月、私は極めて多忙であった。昭南基地の全海軍部隊の部隊長が司令部に集められ、私がマラリア作戦の説明をした。来る日も来る日もダグラス輸送機で、重曹とキニーネ、そして加里沃度汞試薬を携行して、各地を飛びまわり、マラリア作戦を指導した。私のマラリア作戦は、ここでも期待どおりの成果をあげることが出来、二ケ月を出ずして全部隊のマラリア患者数は十分の一に激減した。佐藤軍医長は無論のこと、長官、参謀長のおよろこびは大変なものであった。私は軍医として、医師として、自分でもほんとうによいことをしたという満足感に人知れずひたったものである。

五、終戦から復員まで
昭和二十年八月十五日、私はシンガポールのセレター軍港で無念の終戦を迎えた。マラリア作戦に没頭して東奔西走していた時のことであっただけに、私のショックは大きかった。
 そして私は私なりに、マラリア作戦で或る程度の勝利をおさめることが出来たと自負していた矢先のことであったので、「マラリア作戦に勝ったものが、南方戦線では戦いに勝つ」というこの言葉も、私にとっては、この上なく、悲しくむなしいものに思えるのであった。
 馬来半島ジョホール州のバトバハで約十ケ月の捕虜生活の後、私は昭和二十一年六月五日、広島県大竹港に復員、同月七日、リュックサック一つを背負って、妻子の待つ我が家に帰投した。

 国敗れて山河あり。桜島は厳父の如く錦江湾は慈母のなにこれからだよと、傷心失意の私をさとすようやさしくあたたかく迎えてくれるのであった。

所属 鹿児島市医師会
生年月日M44・10・10
軍歴
正六位動一四等
元海軍々医中佐