個人的出来事 第78話 2007年6月3日 記
私の三味線、その後(その1)
−私の目標設定は正しかった!−
『個人的出来事 第76話』で、奄美で三味線(さんしん)教室に入門できたことを話し、『第77話』では鹿児島で奄美三味線のお師匠さんに出会えた感動について述べた。 あれから早一ヶ月が過ぎたので、その後の経過を語る。
1ヶ月過ぎて、つくずく思い知らされたことは、自分の音楽の才能の“欠如さかげん”は当初心配した通り“すざまじい”ものであったことである。 まず、調弦を音で合わす事が出来なかった。 折角、平瀬先生が下さった“調弦用笛 Pitch
instrument(下写真)”が用をなさなかったのである。
予想通り、笛の音に弦を合わすことは私にとって不可能の世界であった。 ピアノの音にも合わす事が出来ない。 これは、本物の音痴にしかわからない悲哀である。 小、中学校時代もクラス一の音痴で有名であった。 音楽だけはいつも最低の成績で、特に声を出して歌うのが苦手であった。 中学時代、音楽の女の先生の授業の時、『へ長調』で歌ってください、と言われ、『ブー、ブー、ブ、ブ、ブ、』と『へ(おなら)の音』で歌い、本で頭を打たれたが、歌わなくてすみ、喜んだ思い出もある。 今回、私が、この奄美三味線の世界に挑戦するにあって、先ず克服しなければならなかったのが、この『調弦』のハードルであった。 奄美には、『ツンダメ3年』という言葉がある。これは、まず、調弦できるようになるのに3年かかる、という意味である。 しかし、音痴は訓練では直らないから、すなわち、10年訓練しても音痴は直らないから、私の場合、3年頑張っても耳での調弦は無理と思われた。 だけど、今回も、神様は私にほほえんでくれた。 何と、十字屋楽器店で購入したチューナー(下写真)が威力を発揮してくれたのである。
これだと、耳で聴くのではなく、機械が探知してくれる。 以後、“自分で弾く時の調弦だけは”可能となった。(何故あえて“自分で弾く時の調弦だけは”とことわったかというと、教室や合奏の時には、他の人の弦に合わさなければならないので、この新兵器は使えず、他の人に助けてもらわなければならないからである。) ともあれ、調弦さえ出来れば、後は、片倉式三味線譜があるので、練習が可能となった。 可能になったということは、努力すれば必ず目標を達成できるはずである(下写真:詳細は『思うこと第202話』(市民公開講座「夢追って生きる」)参照。
ここで大切なことは、目標設定の仕方である 。実は、私が掲げている『可能な限り高く』には、深い意味が託されているのである。その心は;【『不可能な高さ』を目標に掲げてはいけない。可能と考えられる最高の目標を設定することが大事である。】というものである。 私は、自分に音感がないことを知っていた。しかし、三味線への思いは断ちがたかった。そこで設定した目標が、『個人的出来事 第77話』で述べたもので、そこの部分をもう一度再掲する:
【私は、本物の音痴であり、カラオケを歌うと必ず著しく音程がくるうし、そもそも、ピアノや調弦の笛で弦の調律をすることが出来ない。だから、常識的には、私が三味線をまともに弾けるようになれるはずがないのである。私が音痴であることをこよなく知っている友人に、私が三味線に挑戦するという話をした時の友人のコメントがふるっていた。曰く、『君が日本画を短期間でものにした理由は、素質のある人が努力したからであって、君にとって音楽への挑戦は、素質のまるでないない人が、いくら努力してもやはりだめだということを証明することになるのか、それとも、努力すればなんとか聴けるところまではゆけるという素質のない人への励ましとなるのか、結果が楽しみだ。』と。
私の今の気持ちは、、『なんとか人様に聴いていただける』とういうレベルは無理に決まっているが、せめて、『自分だけでも弾き語りを楽しめる』というレベルになれたらと夢見ている、というのが偽らぬ気持ちである。】
私は、あの時の目標設定は正しかったと、一ヶ月挑戦した現在、身にしみて思うことである。 この目標に向かって、暇を見ては練習に精出しているが、練習中の嬉しい気持ちは、才能のある分野への挑戦の時よりも、もっと大きい様に思う。