エッセイ 目次へ ホームページ トップへ

中外医学社 Clinical Neuroscience Vol.19 980、  2001年 8月1日発行  
人物往来

井形昭弘先生  

 「鹿児島(薩摩)の歴史のなかで抜きん出た人物を二人あげるとすれば誰をあげますか?」と聞かれると、私はいつも「それは島津斉彬(なりあきら)公と井形昭弘先生のお二人です」と躊躇なく答える。

 斉彬公は青年時代を江戸で過ごし、高野長英や緒方洪庵らの蘭学者はじめ多くの先覚者たちと押し寄せる諸外国から日本をいかに守べきかを模索し、その後、42歳で薩摩藩主として江戸から薩摩に来られたのであった。以来、49歳に脳卒中で世を去られるまでのわずか7年間で、日本の歴史をかえこととなった多くの人材を育てられた。加治屋町という下級武士の町から3人に一人ぐらいの割合で西郷隆盛はじめとして歴史に残る多くの明治維新の人材が出たが、たまたま偶然、この時期だけに人材が多かったわけではなく、いつの時代でも、どこでも、人材はいるわけであり、伸びる芽を摘まなかった、すなわち、人材がのびることを許した、そこが斉彬公の人育てのすごいところであったと思う。
 一方、井形先生は、ご両親とも徳島県阿波郡のご出身で、お父様が浜松高等工業学校で精密機械学科を創設され、静岡大学工学部長を経て沼津工業高専の初代校長として活躍された方で、このため、先生は少年時代を浜松で過ごされ、浜松一中を経て広島の海軍兵学校在学中に終戦を迎えられた。その後、名古屋の旧制八校理科を経て東京大学医学部に進まれ、昭和28年に卒業、同大学の第三内科(沖中重雄教授)に入局された。ドイツに3年間留学された後、神経内科の創設に伴い豊倉康夫教授の教室に移られ、そこでSMON病の原因がキノホルム服用による薬害であることを発見され、世界的に注目された。
 私が井形先生にはじめてお会いしたのは、その直後の昭和46年の初秋であった。先生は鹿児島大学医学部第三内科の初代教授としておみえになり、私は創設期の医局員の一人として先生に拾っていただいた。その時、先生は斉彬公が藩主になられ薩藩に帰ってこられたお歳と奇しくも同じ42歳であった。私は卒後5年目の29歳であったが、先生にはじめてお会いしたときの感動はとても文章で表現できないほどのもので、「こんなすごい方がおられたのだ」というカルチャーショックを受けた。先生は、「私は、もといた大学では、教官会議の一員として大学や医局がいかにあるべきかという事を考えてきた。今、こうして、教授として鹿児島大学に赴任し、ここで、これまで考えてきたことを教授としての立場からどこまで実現できるかやってみたいと思う」と医局員に言われ、次々と目の醒めるような民主的な医局作りを進めていかれた。病棟のスタートにあたっても、当直は教授も医局員と平等に組みこんでくれと言われ、実行された。これは、あまりの先生の業務のお忙しさを見かねて、医局員一同でお願いしてやめていただくのに半年ほどかかった。井形先生は権威で医局を運営するのが当たり前のあの時代に、笑顔と叡智と人徳で医局の若者達を魅了し、目標とパワーをあたえ、熱気あふれる教室を作られた。「鹿児島でしかやれないことをやる中からこそ、世界に発信できる仕事が生れる」と言われ、私達のような雑草のような芋侍たちまでもが、やれば何か出来るかもしれない、という気持ちになっていつた。「僕に出来ることは、君達が伸びるのを押さえないことぐらいだよ」とよく言っておられたが、その若者の中から鹿児島大学を含め全国に合計10人もの医学部教授を育てられ、また多くの基幹病院の指導者をはじめとして、地域に根ざした多くのすばらしい臨床医を育てられた。井形先生の生き方・考え方は「井形イズム」と呼ばれ、教室員はその教えの信奉者の集団であった。もちろん、井形先生の信奉者は教室員にとどまらなかった。それまで古い体質のかたまりみたいだった教授会のなかにも井形先生の考えに共鳴する教授が次第に増え、今日の理想的ともいえる教授会の基礎をつくられた。病院長になられてからは、コメディカルや事務職員の殆どにも信奉者の輪がひろがり、病院長二期目の途中から58歳の若さで学長になられてからは、鹿児島大学は言うにおよばず、鹿児島県下に大きな影響と足跡ををのこされ、県内に信奉者の輪がひろがった。鹿児島の知識人の間では、西郷と大久保のどちらが偉かったかという議論をする人は少ない。偉かったのは彼等を育てた斉彬公というのは我々の常識である。そして、いつのまにか、我々の意識のなかで斉彬公と井形先生が重なって映るようになってきたように思う。

 井形先生は6年間の学長の任期を終了された64歳の春、国立療養所中部病院長として名古屋に移られ、併設の長寿医療研究センターを立ち上げられ、国立長寿科学センター創設のいしずえを築かれました。その後、平成9年より現在にいたるまであいち健康の森・健康科学総合センター長として活躍されるかたわら、文部科学省・環境省・厚生労働省関連の重要な役職を数多く歴任され、国政の中枢で活躍しておられ、一方、学術の世界でもこれまで多くの世界的業績をあげられ、朝日学術奨励金、通商産業大臣表彰、環境庁長官表彰、野口英世記念医学賞、上原賞、紫綬褒章、勲二等旭日重光章などの輝かしい賞をうけておられる。

 最後に、井形先生のご活躍をこれまでささえてこられ、また、私どもをも暖かく見守って来てくださった玲子奥様の昨年八月末の訃報に私共は茫然自失したのでしたが、桶狭間古戦場にあり、今川義元の本陣のあった由緒ある境内の墓地に眠っておられる奥様のご冥福をお祈りするとともに、先生の益々のご健勝をお祈りしながら、この項をしめくくる。

エッセイ 目次へ ホームページ トップへ