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◎目次
●始めに言葉あり
●われ考える
●小さな一歩
●積み重ね
●ささやかな価値
■始めに言葉あり
神話や聖書を持ち出すもなく人と人が結びつくとき言葉がかわされる。それは雄叫び(おたけび)であり、威嚇や感嘆だったかもしれない。ワオー、ゲー、アレーというところだろう。
そういうものが積み重なって共通の言葉が生まれ、互いに自分の意志や感情を伝えたのだろう。「あめつちのはじまりは・・・」などと長々しくて仰々しい言葉は後世に作ったものにすぎない。
ここで言いたいのは、「分かってくれるはずだ」という甘ったれやお人好しを除き、他人に意志や感激を伝えるために言葉を使うことだ。
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■われ考える
フランスの数学者で哲学者のデカルトの言葉に「我れ考える、ゆえに我れ在り」コギトエルゴスムがある。江戸時代の国学者の本居宣長(もとおりのりなが)も言葉(コトノハ)を人のタマシイ(魂)としている。この二人に共通するのは言葉を人間の存在や意志と結びつけていることである。
でも、言葉がそういう重い足かせを捨て去り、思いつきやツブヤキの記号にすぎなくなった時代に我々は暮らしている。話すことがその程度なら、書かれたものも同様であろう。
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■小さな一歩
私が耳にした中で一番キザな言葉は、アポロ宇宙船が月に着陸したときのものだ。アームストロング船長の「この一歩は一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」というやつである。
アポロの月面着陸についてはニセモノという説もあるが人類を持ち出すのに驚く。膨大な金と技術を投入した成果にしても大げさである。
むしろ、「私のツブヤキは笑われて当然ですが、黙っているのも癪なので恥をさらす小さな一歩である」と開き直りたい。
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■積み重ね
言葉では伝わらないから文字に残す。それが文章の始まりだろう。これだって互いに誤解を生じないように約束事を積み重ねてきたのである。
同じ言葉が、ある人には正なのに別な人には否では混乱するのは誰でも気づくことだ。でも、それをあえて行なうテクニックも含んだ約束も生まれている。たとえば、川柳や狂歌はそれが発展したものである。
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■ささやかな価値
書くという営みは積み重ねである。文と文を組み合わせて文章ができるだけでなく、それを続ける中で意味を持つのであろう。
そういう営みを忘れて、他人のやることを批評するだけで済ませる人が多い。何であるかを確かめ、それをさらすことが書くことのささやかな価値なのかもしれない。
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