20 移調して気づく微妙な違いを補整する

ギターに挑戦


 同じ曲ばかり弾くのは退屈なのでレパートリーを増やそうと自作した移調器を使ってCキーのコードに変換している(これを「むずかしいコードをオープンコードタイプで弾く」というようです)。妻子には写経だとからかわれ、いい歳をして今さらフォークでもあるまいと煙たがれる。ワープロに打ち込むほうが簡単だけど感触を高めるためにあえて手書きにした。

 移調したあとにギターを弾いてみると♯や♭が付いたコードは音が合わないときがある。レコードやCDで聴き慣れた唄だから違いが気になり、そういう箇所は勝手に合う音に変える。また、知っているコードには限りがあるから無理に弾かないほうが良い場合もある。細かいことにわずらわされず完奏(マラソンじゃ「完走」だけど演奏だからこじつつけた)を目指すしかない。

 どうしても気に入らないときは自分で変えてしまうこともある。たとえばAm→E7→AmをAm→Em→G→Amに変えたほうが原曲に近いこともある。素人がアレンジするのも無謀だがぎこちなさをいかに隠すかも楽しい作業である。楽譜は読めなくても慣れ親しんだ唄は十分聴き込んできたからこんな無茶もできるのだろう。同じコードでもいろいろな省略形もあることだし、押える自信があるコードで対応すればそれなりに対処できる。

 最近は、伊勢正三の『お前だけが』、『ささやかなこの人生』、『なごり雪』そして『海岸通』を交互に弾いて楽しんでいる。おもしろいもので苦手だったFコードも慣れるに従いそれなりに音が出る。同じ作り手の曲に特有のパターンがあるし、それはコード進行のパターンに従うからだろう。(2007/01/07)



         【Jポップスって】

 最近は流行歌を「Jポップス」と呼ぶようだ。なんとなく受け入れてしまうものの、この和製英語には抵抗がある。Jはジャマイカやジャカルタでなくジャパンに違いない。なぜ、ニッポンとしないのかと言いたくなるのは私だけだろうか。戦後の歌謡曲はジャズ、ロカビリー、グループサウンズ、フォーク、ニューミュージック、レゲー、ヒュージョン、ラップなどのブームがあった。いずれも欧米の流行を取り入れたものである。演歌でさえこの流行りをうまく取り入れてきた。それを良いとか悪いとか断罪する気はない。目新しいものに飛びつき、うつつをぬかすのは私も同様である。

 でも、省略語を重ねていっそう意味不明にするのに抵抗がある。これがグローバル化の反映というなら嘆かわしい。米国生まれのパソコンは日本製でもJパソコンとは呼ばない。人気の韓国ドラマをKドラと言って通用するのは日本だけだろう。なぜ歌謡曲だけをJポップスと区別するのだろう。本家の亜流だと言いたいのだろうか。ポップス(これだってポピュラーの省略)で十分である。

 違いを鮮明にして独自性を示すのがアピールの常道としても、言葉のあいまいな使用を避けるべきではなかろうか。一歩譲って、あいまいなのがポップスとしても、もう少しマシな呼び方がないのだろうか。その理由は、歌謡曲や流行歌という言葉が色あせて魅力が失せたのだろう。一種の漢字離れの反映というのも変である。もうひとつは、カタカナやアルファベットを使えばかっこ良いという舶来崇拝の後遺症だろう。その他には、奇抜さや物珍しさをねらった面もあるのだろう。

 あれこれ考えたが疲れるだけだ。流行り廃りにめくじらをたてるのも虚しい。親父が遠吠えをするのも惨めである。「雑歌」や「流行り唄」で十分だろう。歌謡ベストテンやミュージックフェアーもかすんでいく時代である。勝手にやってほしい。(2005/04/07)