7 娘が関心を示す

ギターに挑戦


 いつになくわたしが真剣にギターに向かい、ようやくまともな和音(コード)を鳴らすようになると娘が興味を示し始めた。互いに根気はないものの珍しいものにすぐに飛びつくのは似た者どうしである。

 ギターを渡すと腰が引けるのがおかしい。本体を斜めにして左指を押すからツメが立たず音が出ない。
「こんな指の使い方をさせられたらたまらないわ」と言い出すのもおもしろい。
ピックをどうやって使うか説明させられるのもオックウである。

 興味を示すものがいるのは心強い味方が増えたようなものだ。教えるためには調べなければならないけれど、考えてみれば自分だけであったら簡単に読み飛ばしたり、都合よく理解してしまうのをチェックする機会である。【2006/12/28】




     【おまえが大きくなった時】

 娘に子どもが生まれたと笑みをもらして自慢を並べる親父が二人いる。ふだんは寡黙な親父が饒舌になるのも異変だ。デジカメを買い込み、わざわざメールを送ってくれたが舞い上がって孫の名前を間違えるのも可笑しい。孫も可愛いけれど娘が可愛いから嬉しいのだろう。息子には厳しくても娘に甘いのが親父だ。それはわたしも同じである。女房の親父やわたしの父も似ていた。娘にしたらありがた迷惑で煙たいだけだろう。

 かぐや姫が解散後の1978年に作ったLP「かぐや姫・今日」の中に『おまえが大きくなった時』という唄がある。南こうせつが作詞・作曲していて独り者のわたしは好きになれなかった。「おまえのあたたかい/この手を握りしめれば/あゝ聞こえるふるさとのうた ♪」というフレーズは子どもをダシにしてふるさとを懐かしむようでシャクだった。

 娘が小さかったころは手をつないで歩き、あれだこれだと説明をせがまれた。娘だけクルマに乗せて無線をしたり、ドライブもした。雲海を眺めて感激しあったり、公園でかけっこもした。そんなことを思い出すとこの唄も捨てたものではない。

 我が家には当分は孫などできそうもないが、最近は娘が爺さん呼ばわりする。言うことなすこと妻にそっくりで世話焼きなのも困ったものだ。小さかった手がいつのまにかたくましくなったが、相変わらずおねだりが上手で小遣いを巻き上げられる。さきほど紹介した親父たちも孫をタネにして娘に貢がされているようだ。(2007/02/27)