11 吉田拓郎の詩
フォークのことあれこれ
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目次
●反発が始まり
●青春の詩
●他人でヒット
●たどりついたらいつも雨降り
●今日までそして明日から
●その他の愛唱詩
●追記
(1)反発が始まり
吉田拓郎や泉谷しげるの狂気めいたブームがあったのはもう7年前になる【1979年1月現在=補足】。70年安保もすんなり改定され、学生運動も党派争いから内ゲバ騒ぎで分裂し、誰もが自分のことしか考えなくなったころだ。僕も社会に出ることを切実に味わされていた。あのころは就職にも恵まれ、成績の良い仲間は大学3年の冬には就職先も内定し、この僕でさえ4年の春に内定していたくらいだった。親しくしていたゼミ仲間の男が学校に姿を現さず、キリスト教の伝道をしていることを知って反論のために聖書を読んだものの、チンプンカンプンだったころである。祭りの去った後の、何もかもがシラケきっていた時代だった。
確か吉祥寺だったはずである。駅ビルの中の本屋で立ち読みしているとき、向かいのレコード屋から流れていた唄が吉田拓郎の『青春の詩』だった。ダミ声で字余りな唄が、壊れたレコードのノイズ(雑音)に似て、とぎれとぎれにこだましていた。僕は、その唄の痛烈な皮肉にひかれた。《俺もこんなことしかやっていないんだな。》と思った。青春なんて言葉は子供や年寄りがあこがれたり、懐かしんだりするもので僕とかかわりのないものと考えていたので意外だった。その唄は毎日の暮らしそのものを《青春》というのだ。《うまいことをいうもんだ》と僕は感心した。
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●青春の詩
あのころの僕は、学生時代の記念に何かを残そうと試みていたものの、何をしたらいいのか戸惑うだけだった。《もうこんな勝手放題な暮らしもできないんだ》と思うとそんな気持ちが起こったのだった。何をやっても中途半端で、分かったようで分からないことばかりをその場の気分で過ごしてきた自分が口惜しかった。《オチョクリやがって!》と反発しつつも、拓郎の『青春の詩』に身近さを感じた。そこでここでは僕にかかわる部分だけを抜き出しておこう。
喫茶店に彼女と二人ではいって
コーヒーを注文すること ああそれが青春
映画館に彼女と二人ではいって
彼女の手をにぎること ああそれが青春
すてきな女に口もきけないで
ラブレターを書いたりすること ああそれが青春
グループサウンズに熱中して
大声あげ 叫ぶこと ああそれが青春
フォークソングにしびれてしまって
反戦歌をうたうこと ああそれが青春
飛行機のっとり革命叫び
血と汗にまみれること ああそれが青春
この貴重なひとときを僕たちは
何かをしないではいられない ♪
(『青春の詩』)
若干の注釈をさせてもらえば、喫茶店や映画館へは男の仲間と入るしかなかったことゆえの口惜しさ、ラブレターなど書く相手がいなかったバツの悪さ、グループサウンズやフォークソングにのめりこんでいた懐かしさが僕にあることである。よど号乗っ取りや内ゲバも僕の学生時代にあった。髪の毛を長く伸ばしてヒッピーを気取る者も多かった。この詩には、いずれの内容も僕と同時代の何かを反映しているから印象深くなるのかもしれない。
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(2)他人でヒット
吉田拓郎は、僕がそれまで接してきたフォークと異質な歌い手だった。歌い方からしてしておかしかった。当時のシワガレタだみ声は僕をびっくりさせた。S&Gのファンだった僕にはケバケバしく響いた唄だった。それは以前に接したフォークの歌い手にはみられぬものだった。
次に僕が驚いたのは字余りな歌詞だった。《お経に似ているな》と思った。口ずさむのに慣れるのに時間がかかった。リズムをつかめないところがあって、それがよけい、いらだちを感じさせたものだ。でも、日記風の詩に身近さを感じた。当時の僕らの日々の暮らしがどの唄にも織り込まれていたからだった。これが、拓郎にどことなくひかれてしまう1つの理由なのではあるまいか。
彼のヒット曲は多いが、『旅の宿』や『結婚しようよ』といった流行歌的なものを僕は好まない。拓郎はやはり「生活派フォーク」の代表である。彼なりの人生を反映する詩に僕はひかれる。むろん、詩から感じるイメージにすぎず、拓郎の人格と詩は別々のものと僕はとらえている。
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●たどりついたらいつも雨降り
僕が好きな唄は、『たどりついたらいつも雨降り』、『おきざりにした悲しみは』、『地下鉄にのって』、『雪』などのちょっと暗くて失恋めいたものである。もっとも、上にあげた唄は彼以外が歌ってヒットさせたものである。『たどりついたらいつも雨降り』はモップス(注1)がアレンジして歌った。僕はこのグループの演奏も好きだった。『地下鉄にのって』と『雪』は猫(注2)というグループがヒットさせた。ゼミの仲間と徹夜麻雀をしていたとき、むろん負けていたのだが、『雪』をふと耳にして気に入ったものだった。次のフレーズにただなんとなくひかれただけのことだ。
ああ あのひとは
みしらぬまちの みしらぬひと
雪国の 小さなまちに
そんなわたしの おもいでがある ♪ (『雪』)
妙に切実さを感じ、僕がめいるたびに口ずさんだのは『たどりついたらいつも雨降り』の次のフレーズだった。
いつかはどこかへ落ちつこうと
心の置き場を捜すだけ
たどりついたらいつも雨ふり
そんなことのくり返し
やっとのことでオイラの旅も
終ったのかと思ったら
いつものことではあるけれど
ここもやっぱりどしゃぶりさ ♪
もっとも、今では同じ唄でも次の部分のほうがよけい印象深くて、やけっぱちに口ずさむのである。
人の言葉が右の耳から
左の耳へと通りすぎる
それほどオイラの頭の中は
カラッポになっちまっている ♪
(注)
1、モップスは『月光仮面』をユニークにアレンジして歌った。僕の接した日本のインスツルメンタルサウンドの中ではゴールデンカップスとともに重量感のあるバンドであった。この2つのグループはグループサウンズ後期のバンドだったが、演奏の方が先行して一部のファンしかつかないで解散した。独特の香りを持っていたのに陽の目を見ずに終ったのも残念である。
モップスのメンバーではボーカルの鈴木ヒロミツがコメディアン、ギターの星勝が井上陽水ほかのアレンジャーとなった。
ゴールデンカップスのメンバーではギターのエディ・蕃がスタジオミュージシャンになってフォークやニュー・ミュージックの伴奏をしている。
2、猫は吉田拓郎のバックバンドだった。メンバーだった大久保一久は伊勢正三と「風」を結成して活動した。
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(3)今日までそして明日から
吉田拓郎のブームのとき、『旅の重さ』【素九鬼子原作、斉藤耕一監督、1972年=補足】と『故郷』【山田洋次原作・監督、1972年=補足】の2つの映画がヒットしていた。拓郎は前者の主題歌『今日までそして明日から』を作って唄った。僕はこの詩が好きだ。次の力強いフレーズにただなんとなくひかれてしまうのだ。
わたしは今日まで生きてみました
そして今 わたしは思っています
明日からも こうして生きて行くだろうと ♪
(『今日までそして明日から』)
とりたてて人生を語ることなど不要である。また、語るほどのものを持っていない僕は、人生などとあらたまって口にするのも気恥ずかしい。このフレーズから感ずるものは、キザったらしい文句を平気で散りばめることのできる詩人=田村隆一の詩から借用すれば次のようになるだろう。
どうしてそうなのかをわたしには分からない
ただどうしてそうなのかをわたしは感じる
(田村隆一「幻を見る人」・詩集『四千の日と夜』所収)
この2つの映画のうち、僕らの世代は『旅の重さ』のほうを高く評価したものの、あのころの僕は観念的なものに異常に反発していたせいか『故郷』のほうに肩入れしたものだった。『旅の重さ』はイメージに終始するばかりで、橋洋子のヌード姿の新鮮さだけが記憶に残るだけで、僕は好きじゃなかった。また、『故郷』は山田洋次監督の秀作だった。こちらは加藤登紀子が歌っていた。今ではどういうこともない思い出にすぎないのだが。
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●その他の愛唱詩
以上は1979年1月13日の記録である。吉田拓郎には今も多くの思い出がからんでいて、これだけでは舌足らずの気がする。しかし、それを上手く説明できないいらだちもある。そこで、以下では、僕の気に入っている唄のフレーズだけを記録するだけにとどめたい。なお、拓郎以外の作詞者の作品だけ氏名を明記する。あとはすべて吉田拓郎の作詞である。
そんな時 僕はバーボンを抱いている
どうせ力などないなら
酒の力を借りてみるのもいいさ ♪
(『ペニーレインでバーボン』)
おいらもひらひら お前もひらひら
あいつもひらひら 日本中ひらひら ♪
(『ひらひら』岡本おさみ作詞)
もう眠ろう もう眠ってしまおう
臥待月(ふしまちつき)の 出るまでは ♪
(『祭りのあと』岡本おさみ作詞)
だけどもうやめよう 髪の毛を切っても
何ひとつ変わらないよ そんな僕ガンコ者 ♪
(『僕の唄はサヨナラだけ』)
越えて行け そこを
越えて行け それを
今はまだ 人生を
人生を語らず ♪
(『人生を語らず』)
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【追記】拓郎は、数年前にKinkKidsの歌番組にレギュラー出演しました。彼が作曲した『全部抱きしめて』もヒットしました。人脈の広さもあったでしょうが多弁だった彼が無口を通すのも意外でした。
ゴールデンカップスは横浜を代表するリズム&ブルースバンドといわれます。ヒット曲は『長い髪の少女』です。グループサウンズの中でもヘビーメタルな音を聞かせてくれたバンドです。余談になりますが、私の住んでいる近くに彼らが活動していたという同名のスナックが今も営業中です。どうでもいいことですが、エディ・蕃は中華街の紹介記事によく登場します。生家が飲食店だったようです。
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