「日本人」とひとくくりされても
2007年08月03日
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杉本良夫『「日本人」をやめられますか』(朝日文庫、1996年)
タイトルにひかれて古本屋で手に入れた杉本良夫さんの『「日本人」をやめられますか』(朝日文庫、1996年)を読み流した。この方はアメリカに留学したあとにオーストラリアで教職についているようだ。10年前に書かれたものだが、多文化主義の視点で相対化して比較するだけでなく少数者の視点で日本を外から眺めた分析は参考になる。
日本人とひとくくりにされるのに戸惑うこのごろである。武士道を持ち出されてもどこの馬の骨ともわからぬ子孫には疎遠である。外国の映画に登場する黒ブチ丸メガネの日本人も極論だろう。歴史にしても支配層を中心に多様な日本人像が描かれるものの自分とのかかわりが薄い。単一民族に至っては素朴すぎて呆れるだけである。団塊世代をひとくくりにして多様な個人を見失う意見と似ている。
先日の選挙では日本国籍を持つペルーの元大統領が立候補して落選した。外国生まれでも日本国籍を得られるし、日本に生まれても日本国籍がない人もいる。だから国籍をもって日本人とするのは違和感が伴う。外国で育った二世や三世、あるいは帰化した欧米人の方が我が家の子どもよりいわゆる日本的な振舞いが多いのも不思議である。
国籍は住んでいる場所で決まるわけではなく、決めかたもまちまちだ。出生地を基準にするのがアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、フランスなどである。ドイツと日本は血統主義で親がその国の国民かどうかで子どもの国民資格を決める。それなら「現住地」を基準とする考えや「本人が選択」する方法もあるわけだが日本はそうなっていない。
杉本さんは国籍と戸籍が強固に結びついた日本を多文化主義(マルチカルチュラリズム)のオーストラリアと比較して論じる。オーストリラリアはアメリカと同様に移民の築いた国である。よそ者が先住者を排除して作り上げたところも同じだ。だから、住民登録や戸籍というものは個人を拘束するものとして排除される。また、世界を広くみれば戸籍は中国、朝鮮、日本に限られた家系中心の制度にすぎない。それが同じ国籍内に差別を生んできたのも否定できない事実である。杉本さんはそういう事実を確認してから、アメリカやイギリスの影響を受けつつ多数の国籍を持つ人が集まるオーストラリア社会を描く。つまり、国籍や民族より個々人の才能や技能をもとに国家をとらえる視点である。多様性は豊さの泉という考えがもとにあるようだ。
日本にいるかぎり国籍は海外旅行や出張、あるいは職業選択のときしか意識しない。むしろ、国籍よりも戸籍や民族の違いで差別が生まれやすい。部落差別や在日朝鮮人・イラン人などは民族問題として論じられてきた。個人の才能や技能が無視され民族や家柄あるいは風習が持ち出されるのも変である。それは、世代や階層を持ち出して多様な個人や振舞いを無視することとつながる。そいう社会に慣れ親しんでくると杉本さんの視点は極論に映ることも確かである。いつでもやめられるようでいてもしっかり身に染み着いた飲酒や喫煙と同じで日本人の思考や振舞いは消えそうもない。でも、多文化を認めてよそ者の弱者の視点にたった物の見方だけはできそうである。