女が男を眺める時代
2007年06月05日
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女子寮の管理人が「たかがシャンプーでガタガタ言うなと思っていたら8,000円もすると言い出すので驚いた」と呆れていた。それほどの値段なら盗まれれば腹が立つのだろう。それを知合いの床屋の親父に話したら、10,000円以上するシャンプーが売れるという。増毛や発育の類でなく、ふつうの身だしなみに使われるそうだ。
身だしなみには無頓着だからアクセサリーや化粧品にはうとい。でも、最近は男も化粧するから肩身が狭くなった。先日読み流した小倉孝蔵さんの『〈女らしさ〉の文化史
性・モード・風俗』(中公文庫、中央公論社、2006年)は、20世紀は女性が男を眺める時代になったことを指摘している。女性が眺められる存在であるあるとは思っていたが確かに逆転化はしている。飲み会では男の裸体やホストが女性の話題にあがることも多い。
この本は19世紀のフランスの文学や風俗を語りながら、「男らしさの危機」意識が性差の強調に結びつき病的な〈女らしさ〉が美化されたというのも面白い。19世紀は、女性の高学歴や社会進出により職場を失い、男の相対的な地位低下が始まった時代だというのも意外である。また、経済力を増し社会の支配層となったブルジョアジーのコレクションとして〈女らしさ〉が強調されたともいう。ずっと昔に愛読したヴェブレンの『有閑階級の理論』が持ち出され、衣服のために財を支出するのは典型的な「顕示的消費」の行動にほかならない(p207)というのに思わずうなずく始末である。
ともあれ、衣服やアクセサリーだけでなく、女性の身体をなめまわすように描写するのも19世紀のフランス文学に目立つようだ。紹介されていたゾラの『ナナ』やフレーベルの『ボヴァリー夫人』の描写もしつこい。引用だけでは物足りなくて『ナナ』も読んだがファッションに疎いから細々した描写にへきへきして放棄した。
女性のシャンプーの話からずいぶん脱線したが、女性に眺められることを意識した男たちも似たようなことをしているに違いない。ものぐさや不精を〈男らしさ〉と思い込んできたわたしには息苦しい現実である。身だしなみの美しさよりしぐさが問われるとなるとますます憂鬱になってきた。