「25時」という小説
    2007年04月05日


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 古本屋を回っても見当たらないのが1967年に映画化されたコンスタン・ヴィルジル・ゲオルギュ原作の『25時』である。同じタイトルで別人が書いた小説も映画化されたから混乱する。映画はアンソニー・クイーンが主演だったがあいにくわたしは見ていない。同じ人物が多様な国籍者として迫害される物語で1949年に発表され、日本でも67年に文庫化(河盛好太郎訳、角川文庫)されてわたしは学生の頃に読んだ。ルーマニアの作家がパリで発表したものだから冷戦も反映してなにかと話題になった。

 最近は25時営業をうたう店も増えた。週末に出向く銭湯や本屋もそれが売り文句で、夜更けにのこのこ出向く。終日営業とは違い午前1時まで営業というだけだ。でも、25時には一日を越えるほかに別の意味がある。これは「メシア(救世主)の降臨後も解決されない最後の時間のその後の時間」をいうようだ。むかし流行った実存主義風に言えば「不条理な現存在」とでもなろうか。

 主人公の農村生まれのルーマニア人がユダヤ人として迫害され、高貴な家柄のルーマニア人としてソ連に追い出され、今度はナチスに優秀なドイツ人と美化され、挙げ句の果てはコミュニストとしてアメリカ軍に収容されるというとんでもない物語だ。これに似た話は日本の植民地だった隣国の人々も味わったに違いない。オリンピック選手や軍人になって故国から浮いてしまった人もいた。そういう読み方をしたばかりに日本にいてもいつ外国人扱いされるのかと怯えたこともあった。

 もう40年前の異国の小説など覚えている人はわずかであろう。わたしも文庫本はとっくに捨ててしまった。でも、この小説のあらましは集英社文庫の『20世紀文学映画館』(大内一憲・近藤雅和著、1996年)に掲載されている。余談になるがルーマニアはドラキュラ伯爵の舞台だけでなく、ナチスドイツに協力したばかりにソ連に占領されたり、それゆえに共産主義国家とみなされて冷戦時代にはアメリカに色眼鏡でとらえられたことも忘れてはなるまい。ソ連崩壊後は国家やイデオロギーにほんろうされる個人というテーマがなじまないようだ。



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