ぼんのう三毒
2007年03月16日
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ひとの行動や判断を狂わせるものを仏教では「煩悩(ぼんのう)」と呼ぶようだ。わたしも物欲・色欲・名誉欲などに振り回されて生きてきたがこれも煩悩だろう。先日紹介した瓜生さんの『知っておきたい仏像の見方』によれば、悟りをさまたげる根本的な煩悩には貧(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒があるという。貧というのは貧欲で〈強い欲望〉、瞋は他者に対する怒り、痴は根本的な愚かさをさすそうだ。
煩悩の中でこんれらを特に悟りを妨げる根本的な三毒とするのが凡人のわたしには理解できない。持ち合わせていないようでも人なみという欲望は隠せないし、われ関せずだから瞋(じん)がないようでも「ひがみ」と「やっかみ」はつきまとう。そして、愚かさは生まれつきである。人間をやめないかぎり悟りが得られないのも煙たい。
へそ曲がりだから若いころは観光地をさけて寂れた場所ばかり出向いた。山すその荒れ果てた寺の入口に塗装がはげた仁王像が立っていると不気味さが増し、オカルト映画を思い出して思わず腰が退けた。それも加わって仏像で気になるのがいかつい顔つきの不動明王である。典型的な悪役面で近寄りがたい。もう少し愛想を振りまいてもいいだろうに気味の悪い風体をさらす。理で諭しても従わない不心得者を相手にするにはこういうタイプも欠かせないようだ。
大乗仏教は仏像という偶像を持ち出し、来世利益を阿弥陀如来、現世利益を薬師如来に体現させてきた。それとともに反抗的な者には恐怖という威圧を持ち出すのも人間社会の複雑さを反映するのだろう。でも、従わない者を威圧するのは慈悲や救済をうたう宗教が持つべきことだろうか。仏教に限らず異端者を排除してきたのはユダヤ教、キリスト教、イスラム教も同様である。瓜生さんは従う者には明王の慈悲があるように説明しているものの煩悩がつきまとうわたしにはそれは屈した者に対する飴(あめ)にすぎないような気がしてならない。
【追記】
日本に伝来した仏教は大乗仏教といわれる偶像崇拝を伴う思弁的なものです。タイやミヤンマー(セイロン)に伝来した偶像崇拝を拒む初期の仏教とは異なります。出家した人だけでなく在家の信者も取り込んだ仏教という意味で大きな乗り物だとして「大乗」と自称したことに由来します。ですから、小乗仏教というのは差別語になります。