楡家の人びと
    2006年12月05日


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 30年前に読んだ北杜夫の『楡家の人びと』(新潮文庫)を先週読み終えた。上下2分冊だから読むのに5日もかかるのもまどろこしかった。昔読んだときも意外に時間がかかった本である。親子三代にわたる物語で登場人物が多いから読み進むうちに何度も読み直したからだろう。また、精神病院をとりまく家族史だからなじみにくい面もある。

●北杜夫という作家

 いったいどちらが本物かと戸惑わされるのが遠藤周作と北杜夫に共通する。孤狸庵(こりあん)とドクトルマンボウと自称してユーモア作品を書きながら、シリアスで憂鬱な作品も書くからこれが同じ作家のものかと戸惑わされた。今では死語と化した「純文学」の片鱗をどこかにただよわせる作家たちである。この『楡家の人びと』はシリアスでありながら登場人物の描写にユーモアがどことなくただよう。

●家族史という物語

 歴史と人間というテーマが論争になった時代があった。作家と歴史家の言い争いで、いわゆる昭和史論争といわれるものだ。その時代に生きた人々を表現の中にどのように関わらせるかが問われたようだ。経済史や社会史に興味があったわたしにはどうでもいいことだった。
 とはいえ、日本にも人物史でなく家族をテーマにした小説は多い。島崎藤村の『夜明け前』は幕末から明治に至る豪農を取り巻く時代描写であり、五味川純平の『戦争と人間』や住井すえの『橋のない川』なども忘れてはならないものだろう。『楡家の人びと』もそういう一面をもっている。

●大いなる俗物とエピコーネン

 金沢甚作という古びた名前を捨て、楡基一郎と名乗る精神科医は大いなる俗物として描かれる。ドクトルメジチーネと自ら称し、患者の頭に補聴器をあてるハッタリまでする。多くの俊才を集めて書生とし自らの基盤を固め、政治家との関わりも欠かさない抜目なさやしたたかさもある。アイディアも抱負で積極的な行動をする。こう書くと、医者というよりも明治維新後に一代で財をなした政商を彷彿させる人物像である。
 物語は青山に移転後の楡病院から始まり、本郷での15年の活動は触れられていない。また、田舎から飛び出した秀才がドイツに留学して見かけは宮殿のような病院を営むまでの経歴も触れられていない。ともあれ、基一郎は代議士を落選し、関東大震災で青山の病院を焼失し、世田谷に新しい病院敷地を物色中に亡くなる。
 彼の俗物像を引き継ぐのが小男でアヒルに似た歩き方をする院代の勝俣秀吉である。書生あがりだが気が小さくて医師になれなかった人物が楡家を盛り立てるのも皮肉である。基一郎ならどうしたかという口ぐせは楡家の家族にとっても煙たい存在として映る。

波乱万丈な女性たち

 この物語に華やぎと転回を加えるのは三代にわたる女性の動きである。基一郎の妻である「ひさ」は外交的で気位の高い女性として登場する。子どもは婆やに任せ、専制主として振る舞う。長女の龍子は学習院出を鼻にかけた冷たい女性であり、婿である徹吉を終始無視する。ひさと龍子は楡家の体面を維持する役割をもって登場するから意地悪い者として描かれる。次女の聖子は学習院出の美女であるが駆け落ちにより早世するヒロインである。そして見目が姉たちに劣る三女の桃子は楡家にそぐわない行動を行なう童女として描かれる。龍子が生んだ藍子は美女でありながら愛人を戦争で失い、不発弾で顔に傷を負う。いずれにせよ女性たちは物語に幅を広げ 、緊張感を与える役割を果している。そして子どもたちを育てる下田の婆やもサブキャラクターとして欠かせない。

●ふがいない男たち

 この物語に出てくる男は基一郎を除いてふがいない者として描かれる。婿の徹吉は秀才であるがために基一郎のようなハッタリができない学究肌の生真面目人間である。長男の欧州は留年を何度も繰り返すぐうたら息子であり、次男の米国は家業にたずさわらない偏屈な余計者である。また、徹吉の長男の俊一は欧州と同じような総領の甚六であり、次男の周二は米国と同じようにな余計者である。

●物語の結末

 昭和に入って敗戦に至る道のりは楡家の没落とつながる。世田谷に本院が移り反映し、青山は分院となるが職員のみならず米国や俊一まで徴兵され、私立病院が成り立たなくなる。藍子や周二も学業より工場応援に追われる。挙げ句の果ては空襲で焼け出されてあばら屋暮らしを強いられる。これは日本の敗戦であり楡家に没落である。物語は徹吉が去り、米国の未帰国のまま気丈な龍子のつぶやきで終る。ふがいない男たちを叱るのもこの物語に通じるものがある。

追記】

 わたしは若いころに自分の家族史をまとめようとしたことがある。『楡家の人びと』に刺激されて始めたものの途中で挫折した。祖父母や父母まで登場させたが恥をさらすようでやめた。人を描けばモデルの詮索が始まるのが恐かった。この『楡家の人びと』だってそういう詮索が伴い、北杜夫の父である歌人の斉藤茂吉や兄の斉藤茂太氏も困っただろう。

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