宮沢賢治の「やまなし」を読んで
    2006年10月31日


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 夜空を眺める季節だから、先月は宮沢賢治の文庫本の『銀河鉄道の夜』を買ってきた。こむずかしい解説にイヤケがさして途中でやめた。でも、それに含まれていた短篇の『やまなし』がやけに気になるこの頃である。川の底にいる親子のカニの話である。水面下から影の動きでカニの子どもが想像しあうのを描いている。

 子どもの頃は海に潜って船底や海上を眺めた。素潜りだから数分ぐらいの時間である。差し込む光さえ神秘的に感じた。海中から眺めてわかるのは光と影の動きであって、それが実際はどういう形やモノなのかわからなかった。船底が見えても水上の形は思いもつかない。大きいか小さいかはわかっても、それが貨物船なのか客船なのか釣り船なのかはさっぱりわからなかった。

 わたしたちは水上に出ている部分でその船の用途がわかるけれど、水中に暮らす生き物はけっして理解できないだろう。『やまなし』はそういうことを描いているようだ。木の葉が落ちてきたり、鳥が水中の魚をついばむときは葉の影が覆ったりクチバシだけがカニに見えるだけである。

 そこで思うのはわたしたちもカニと似たような思い込みでものごとを決めつけているということである。自分たちが見聞きしていることだけが正しいと言い張る頑迷さもある。常時その場にいるわけでもないのに、あたかもそこにいたかのような言い種をして他人の言うことを受け入れない。また、自分の注意力や観察力が欠けることを棚上げにして他人も同じように感じるという鈍感な決めつけもある。

 これはことわざで言えば「木を見て森を見ず」に通じる。自分に見えるものしか気がつかないから、それがどれほど広がり、どのようにつながっているかもわからない。自分の感情や経験でしかとらえないから他人には別の考えや感じ方があることも認めない。

 最近はタコ壷にこもって、それを正当化するタイプの人間が増えている。それが個性だと思い違いするのも困ったことだ。これは川の底で暮らすカニと同じで一面しか見ていない。インターネットで得た知識や情報を持ち出してそれが現実だと思い込むタイプに多い。もっともらしい数字を並べたり、断片的な映像を出して情報操作が行なわれていることにも気づかないようだ。自分で確かめたり考えるのを嫌う面がある。

 賢治の短篇はここまでは触れていない。題名の「やまなし」は樹木の山梨だという解説がある。これだって、本当は何かわからない。花ことばが絡んでいるのだろうか。わたしは、カニを通じて人間の思い込みを揶揄(やゆ)してるような気がする。


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