渤海(ぼっかい)国と日本の交流
    2006年10月15日


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 歴史の教科書に載っていたがまったく覚えていない渤海国が気になって上田雄氏の『渤海国ー東アジア古代王国の使者たち』(講談社学術文庫、2004年)を読み終えた。この本を読む前にインターネットで渤海国について検索したが、中国・北朝鮮・ロシアいずれもが自国の領土として扱っている地域であることが分かった。現代と重ねると政治的なキナ臭さが伴うが、奈良時代から平安時代(8世紀から10世紀初頭)にかけて30回以上も日本に使節を派遣してきて交流を深め、日本の正史や漢詩集に記録されている国だという事実を重視したい。また、日本から渤海国へ15回の渤海使が派遣されていることも忘れてはならないだろう。

 渤海国は、西暦668年に唐と新羅(しらぎ)によって敗れた高句麗(こうくり)の王族やその協力者であった靺鞨(まかつ)人の族長が営州に強制移住させられ、その地にいた契丹など唐に滅ぼされた捕囚とともに反乱して698年に建国した振(しん)が始まりである。渤海というのは唐の北辺を指し、振王を渤海郡王として柵立したことから国名になった。山東半島と遼東半島の間にある渤海湾と紛らわしいが、渤海国の都は上京龍泉府であって中国の黒竜江省寧安市郊外にあった。926年に契丹に攻められて滅亡するまで200年以上栄えた国である。領域としては、中国の東北部部(かつて「満州」と呼ばれた地域)、北朝鮮の北半分、それにロシアの極東地方、沿海州にひろがる地域である。渤海国は靺鞨族(ツングース系の狩猟民族)の国であったが、その王や支配層は高句麗の流れを組む朝鮮系の民族であった。

 渤海国と日本の交流は遠交近攻の事同盟から始まったようである。高句麗時代から新羅と仲が悪かった渤海国が唐と新羅の挟み撃ちを避けるために、新羅と対立していた日本へ遣使を差し向けたと使節団の肩書きが武官であることをもとに上田氏は推測している。また、渤海国からの派遣回数が多いのは毛皮と麻や絹の繊維製品との交易にあったとみている。そのほかに、同じ漢字文化のよしみで漢詩等の文化交流も行われ、渤海国が滅びてもその記録が日本に残ったという。多いときは隔年日本に訪れ、歓迎費用の負担増加で12年に1度の遣使となったようである。

 日本は、渤海国と交流することによって唐との交流経路にパイパスを持ったことも忘れてはなるまい。というのは黄海を横断する遣唐使は難破がつきまとい、東シナ海をベトナムまで流される危険な航海であったことである。日本海航路も危険ではあったが運用実績もあるバイパスであった。ベトナムに漂流した平群広成が唐から渤海国を経由して日本へ帰国したり、唐にいる留学僧への送金なども渤海国を通じて行った記録も残っている。交易を通じて互いの信頼関係が強固であった反映と上田氏はみている。

 このほかにも日本海を挟んだ渤海国と日本の航海経路は、初期がウラジオストック寄りのポシェト湾(東京龍原府)から出羽・能登・出雲と広範囲になっていたが、後期は南下した吐号浦(南京南海府)から加賀・出雲間と安定している。200トン足らずの帆船が季節風を利用して行き来したことも興味がある。上田氏はエピローグで渤海国を「二百年の間、ほとんど戦乱や内乱を記録することのない平和国家」と位置づけ、「日本にとってもっとも近しい隣国だったのであるが、そのことが、日本史の上では、ほとんど認識されておらず」と嘆く(295頁)。コンパクトだが読み応えのある本である。

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