寛容(かんよう):互いを認めあう思考
    2006年05月14日


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 池田清彦さんの『他人と深く関わらずに生きるのは』(新潮文庫)を読んでいるうちに、ジョン・サマイバルとういうアメリカの哲学者が自由について岩波新書に書いていたのを思い出した。制約のない自由などないというのが本の内容で、アメリカのリベラリズムには「寛容」の合意があるという指摘が記憶に残っている。

寛容について

 寛容は互いの人格や尊厳を認めあうことである。自分の主義・主張を押し通すのでなく、相互の信頼を踏まえた精神の在り方である。つまり、自分を殺して他人に迎合する「妥協」ではないし、人種・性別・門地・財産などに制約されるものでもない。

つきまとうハードルが多い

 互いを認めあうことは実行するとなると偏見や思惑が絡んで困難をともなう。血を分けた親子や兄弟だって生活環境や経済状態でものの考え方や感じ方に違いがある。夫婦だって育った環境が違い、思惑も絡むからいつも意見が一致するわけでもない。同じ職場にいても立場が異なれば同じ事態の危機感にズレがあり判断や処理に温度差が出る。同じ世代といっても健康状態、貧富、性別、趣味や関心は異なる。まして、言葉や生活習慣まで異なる外国人には拒絶反応がつきまとう。

共生を妨げる格差

 最近は、職業間の格差や世代間の格差に加えて同世代での「希望格差」まで取り上げられている。競争原理や成果主義が浸透し、平等社会から不平等社会への移行が制度的にも進みつつある。そこには人と人との「共生」という考えは限られた範囲内でしか成り立たないように思われる。

寛容は限られた範囲のものか

 こういう状況下で寛容を持ち出せば、「格差」を認めた上での限られたものになりそうである。それは共生も同様である。でも、そういうものが果して寛容であり、共生なのだろうか。限られた範囲で違いを認めあうなら現状を固定化させるだけだろう。

共生は過去の遺物か

 少し前にもてはやされた「共生」は自然や環境と人間との関わりで語られることが多かった。そこには一般・抽象的な人間が語られるだけで、個別・具体的な人間は取り残されていた。また、人間どうしにしても「世代」という大枠でしか語られなかった面がある。でも、個々の人間どうしを忘れて環境や自然との関わりはないだろう。それは過去の遺物ではなくこれからも関わり続けるものだろう。

今こそ寛容を持ち合う時期

 寛容の合意があるとされたアメリカが原理主義にはしって他国に押しかける時代である。だから、寛容は無駄だと言いたくはない。自分の意見を押し通せば9・11テロを生むのはアメリカが自ら体験したとおりである。むしろ、寛容を忘れて行動して他の原理主義とぶつかりあっているだけだろう。アメリカはともかく、日本の中でいがみあう必要はないはずである。たとえば、年金の支給と負担を世代間の火種にしてほしくない。制度の改革を資金負担にすり替えるのではなく、若者に制度の必要性をきちんと説明し、希望を持たせる方策を示す時期ではないか。切り捨てと負担増を並べて対立を煽るのは無責任である。

他人と関わらずに生きるにしても

 無理に関わりたくないが関わらざるをえないのが人と人の生活である。夏目漱石の『草枕』を持ち出すもなく「人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」である。互いの言い分を認めあって生きていくしかない。依怙地を張って住みにくくしあうこともないだろう。寛容を忘れず共生していくしかない。

【補記】
 池田さんの本の内容を説明しないで、アメリカ人の古い著作を持ち出すのは気がひけます。池田さんは「深く関わらない」ことを提起しているだけで関わりを断ったり、無視することまですすめていません。内容はまともですが逆説的なタイトルが誤解を生むような気がします。

 サマイバルの本は芝田進午さんが訳していたと思います。日本人にはきわめて当たり前の自由論ですが、自由主義のアメリカでは異端の考えだったようです。

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