デラシネの画家: 藤田嗣治
    2006年02月12日


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    ◎近藤史人著『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社文庫、2006年)


 芸術的センスが欠けるから写真を眺めても絵を鑑賞する気は持ち合わせていない。それが口惜しくてたまに美術史の解説を読む。約束ごとの多い水墨画や禅画より西欧絵画の裸体や写実画のほうが具体的でなじめる。知識を増やす程度だから個々の画家の生涯など気にとめなかった。

 近藤史人著『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社文庫、2006年)をようやく読み終えた。「つぐはる」という名前もこの本を読む前は知らなかった。1886(明治19)年に生まれ、1968(昭和43)に81歳で亡くなった画家だ。1920年代にフランスで活躍し、日本に戻って戦争画を描いたばかりに画家の世界から詰め腹を切らされ、冷たい扱いに愛想をつかしてフランスに帰化するしかなかった画家の生涯を描いた本である。

 陸軍の軍医総監の末っ子として生まれた男がなぜフランスへ出向き画家として活躍したかも驚きである。ちなみに、軍医総監という役職は大将クラスで森鴎外の次が藤田の父だったという。17年もフランスにとどまり、世界的名声を得たわりに故国の画壇の評価は低かったようだ。日本の美術史にも登場しないのも不思議だ。この本を読んでいる途中で田町、品川、蒲田そして横浜の大手の書店で彼の絵を探したが見当たらなかった。

 この本を読んで気になったのは「戦争画」の扱いである。アメリカに接収され、1970年に「無期限貸与」という形で返還されても一般公開されないのは不当な扱いだろう。藤田以外にも多くの著名な画家(横山大観・黒田清輝・梅原龍三郎・前田清邨など)が描いたのに藤田だけに責任を負わせた憤りを作者は漂わす。面倒をみた仲間に見捨てられ、挙げ句の果てに画壇から邪魔者扱いされた藤田には耐えられない仕打だったにちがいない。

 欧米で評価が高まればそれだけでもてはやすこの国で、ピカソやモデリアーニと並び称せられた画家が受け入れなかったのも不思議でならない。女性遍歴や奇行が災いしたとしても作品が評価されないのは異常である。外国で暮らしたがゆえに日本人であることを自覚し、聖戦と信じて戦争の場面を描いた藤田にとって、戦争責任(敗戦処理)の追及に脅えて仲間に責任転化する仕打は許せない背信となっただろう。

 著者は藤田の作品を外国の物真似でなく、日本に根ざした独自の作品と扱う。それゆえに藤田が世界的な名声を得たと評価する。画家の評価は倫理観でなく描かれた絵で評価するべきだろう。その点を貫く客観性を著者は失っていない。そして、この本は美術の解説でなく、藤田を取り巻く日本人だけでなく日本の画壇の体質も描いている。文庫で400頁を超える大作だが息を抜けない内容であふれている。

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