+序章+



彼女とこの世界との絆が断ち切れ、その体は一気に消滅に向かう。
溢れ出した無数の魂の光が、神殿の中に、まるで星屑のように鏤められた。
身を薄れさせながら、彼女は囁き掛ける。愛する人に、その想いを伝えようと。
しかし、その声は途中で途切れ、柔らかな輪郭と共に霞んで、消えた。

そしてそれは、天界が待ちに待った瞬間でもあった。
10年以上昔、取り逃した小さな生贄を捕らえるための。
闇の庇護の元を離れた魂が、混沌の淵に沈む前に、その白い光を掬い上げるべく、
無数の御使いたちが、悪魔が立ち去った隙を狙って舞い降りる。

しかし……。

彼女の体から零れる筈の小さな魂は、とうとう現われなかった。
御使いたちが迷っているうちに、他の幾千の光も安らぎの元へと帰り着く。
彼女はどこへ行ったのか…
それは謎に包まれたまま……。


「……と、まぁ、そういうことだよ」
銀髪の青年は、忙しく手を動かしながら話し続ける。
「結局、彼女の魂がどこに行ったかは、僕ら天使にも解らない」
もっとも、たかが生贄一人に、天界全体が関わっているわけではないけどね、と笑う。
「それに、本当は彼女の命なんて、ほんの些細なことなんだろうな。
取り込まれた創造主の力も戻っている訳だし。
でもね、生贄を逃がしたとあっちゃ、神の権威に関わるだろ?
異国では『能ある鷹は爪を隠す』なんて言うらしいけど、
カミサマが弱みを見せたら終わりだからなぁ」

”だけど、神の目も逃れて、彼女はどこに消えたの?” と白いウサギが聞く。

「さぁねぇ…ただ、何か約束をしていたみたいだから」
青年はクツクツ笑った。
「本気で約束したなら、それを守るつもりなんじゃないかな」

”でも、結局消えてしまったなんて、とても可哀相じゃない?” と白ウサギ。

「……いや、僕は、可哀相だとは思えないね」
布を切っていた手を止めて、青年は青い瞳を遠くに向ける。
「彼女は、全て自分で決めたんだよ。自分にとって幸せなのは何か、
一番大切にしたいものは何か…我侭な程真っ直ぐに。
それを貫くためなら、回りが哀しもうとお構いなし。そんな酷い女だよ。
不幸だと思うかい?」

白ウサギは目をパチパチさせた。ずっと黙って聞いていた黒ウサギは、大きく伸びをする。

”お前も、彼女が消えて哀しんだのか?”

「ははは……どうだろうねぇ」
青年は皮肉な笑いを見せて、大きな翼を広げる。今は、片方しかない美しい白い羽根。
「彼女が神に逆らわなければ、僕も羽根を折られなくてすんだんだけどね…」
 
それを今更、消滅するなんて。
神の屍人形のままでいればいいものを。
人形が恋などするから。
こういうことになる。
 
「一体、誰のせいで苦労していると思っているんだよ、全く…」


視線を戻すと、二対のウサギの目が、じーっと青年の方を見つめていた。

”振られたの? ザキ”

「…………なっ」
ショックのあまり、思わず布を広げたままのテーブルにうつ伏してしまった青年を見て、
ウサギたちは語り合う。

”やっぱりね”
”そうなんだな”
”可哀相なザキ”

「……それは、恐ろしい誤解というものだよ…」
うめくように声を上げると、青年は、どこか遠くで彼女の笑い声を聞いたような気がした。