+指先+


お止め下さい、と言う間もなく、彼女は細い手首を捕まれた。
乱暴に引き寄せ押し倒されれば、床に墨を流したように、長い黒髪が広がる。
腕に抱えていた酒壷が落ちて、甘い香りが漂った。

酒女の薄い衣装は容易く引き裂かれて、白い肌が露になる。
胸は水蜜桃のように、先端だけがほんのりと薄紅を帯びて、いかにもふっくらと瑞々しく、甘そうに見える。
男がそこに歯を立てようとすると、女性は、暗い深海色の瞳で見据えて、「厭です」とよく通る声を上げた。
今にも手に掛けられそうなたおやかな獲物の風情で、けして絶望せず、強い意志を持った眼差しで、彼女は「厭です」と繰り返した。
腹立たしげに歪んだ男の頭上から、
「お止めなさい」
と、静かな声が掛かった。

女性は、自分と男の間に割って入った人物を、瞬きと共に見つめた。
澄んだ灰色の瞳が、”貴女が止めさせたのですよ”と言いたげな表情を浮かべている。

乱暴を働いていた男が、怯えるように立ち去ると、その人物は彼女に手を差し伸べて、そっと起こした。
破れた衣装の上に、黒い上着を掛けられると、仄かに薔薇の香を感じた。

”ああ。
この手を信じていれば良かったんだ”

彼女は、ふっとそう思った。

触れ合った指先が、名残惜しげに絡まりあった。
もの問いたげな眼差しで、女性は小首をかしげた。

その様子が、どこか仔猫のようだと、彼は微笑んだ。






●いつかの会話より。









+初雪+



暗く細い道を、少女は歩いていた。
足元を照らす灯りもまばらで、今夜は月も出ていない。

遅くなってしまったかな…

と、少女は思った。
手には小さな薄紅色の瓶。 まるで香水瓶のように華奢で繊細な入れ物の中に、どうしても欲しかった魔法薬が揺れている。

一人でとても遠くに来てしまったから、もしかしたらあの方を心配させてしまうかもしれない…。

あの方は、いつも私のことを気遣って下さるから。と少女は思う。

昔、娼婦まがいの仕事をしていたため、男性からの手荒な扱いには慣れているつもりだった。
それなのに、あの方は優しく、私を壊れ物かのように扱い、そっと触れてくれた…。

……接する女性全てに、まるで自分が本当の姫君のように感じさせるのは、あの方の才能だわ……

少女は、ふふふと笑う。

そっと柔らかに触れられた気がして、顔を上げると、黒水晶のような冬の空から、白く白く舞い落ちるものがある。
それは小さな羽根のように少女の繊細な睫に、長い髪に、マントに降り積もるのだった。

ああ……もうすぐクリスマスだったな…

少女はそう考える。
もはや神を愛している訳ではないけれど、この行事の暖かな雰囲気はけして嫌いではなかった。
一番大切な人たちと過ごす日、という……。

そういえば昔、彼の方と一緒に初雪を見たことを、昨日のように思い出す。
優しく肩に掛けられたストールを。抱き締めてくれた腕を。

手のひらにある小瓶をそっと握り締める。
大切な人への贈り物にするために、どうしても欲しかった恋の秘薬。

喜んで下さるかな、と小さく笑って、少女は結界に包まれた屋敷へ戻る足取りを早めた。






●珍しくもクリスマスもの。









+ 万魔殿にて+


「あ〜ん、やだ〜。マネキュアが剥げてるぅ〜」
「もう疲れた〜。彼氏に迎えに来てもらおうかな〜」
「あんたの彼氏って、ムールムールさまの従者だっけ?まだ続いてんだ」
「勿論よ。あっちに住まないか、って誘われてるんだけど」
「私は断然アスモさまかな〜v」
「大物狙いもいいけど、自分の足元見た方がいいわよ〜」

リリムたちの控えの間は、この上なくかしましい。
酒女として、万魔殿の宴に使える彼女たちは、美しき魔界の花。
その中で、控えめな小さな野草を思わせる少女が、そっと帰り支度をしていた。
「あら、エルスはもう上がり?」
「ええ」
エルス、と呼ばれた少女は、振り返ってにっこりと微笑む。
「エルスは彼氏いるんでしょ?迎えに来てくんないの?」
エルスは、パチパチと瞬きをして、首を傾げる。
「お忙しい方ですし…」
「そうなの?でも、ほんとは迎えに来て欲しいでしょ?」
リリムが、ずい、と迫る。
「そう、ですね、迎えに来て下さったら嬉しいとは思います」
と彼女は笑った。

頭から大きなストールに包まりつつ窓を見上げる。地獄の最下層に位置するこの場所では、太陽の光が差し込むことはけしてない。
ゆるゆると少し歩こうか、それとも転送のルーンでも使わせて貰おうかな、などと考えつつ万魔殿を出ようとしたところで、廊下の端に一つの後ろ姿を見つけた。
思わず両手で唇を押さえて息を呑むと、相手も振り返って少女を見つめる。

「どうしてこんなところにいらっしゃるのですか」
エルスはようやく、そうとだけ呟いた。
「迎えに来て欲しいと言ったでしょう」
彼は、少し不思議そうな眼差しでそう返した。
「まさか、本当にいらっしゃるなんて思いませんもの…」
そう言いながら上目で見上げると、さあ帰りますよ、と彼は背中を向ける。
いなくなったら厭だ、とエルスは慌てて駆け寄って、後ろからそっと抱きついた。
「甘えん坊ですね、姫君」
「……。迎えに来て下さってありがとうございます。とっても嬉しかった」
エルスは幸せそうに笑って、そう呟いた。






●こんな夢を見た。(by.夢十夜)









+口付け+


「貴女も充分美しいのにね」
そう言うと、彼は手にした頭蓋骨にキスをした。



一体、どこから取り出したのか判らないが。
彼には妙に骸骨が似合うなぁ、と感心してしまう。

黒い上着、黒い帽子。
笑みの形に歪められた、赤い唇。
優美な指に嵌めた、手袋の上で月に照らされる白い骨。

彼が悪魔であることは知っているけれど。
それとは関係なく…例え天使であった頃でも。
きっと、こんな風に骸骨を抱くのが似合う人であったと思う。
別にそれは、貶しているとか、禍々しいとかいうものでもなく。
人が誰しも肌一枚下に持っているものの、美しさを知っているからだろう。


「では、私も骨になったら、褒めて下さい」

「きっと、骨だけになっても美しいのでしょう。貴女なら、ね…」


この人だったら。
私が死んで。
骨だけになっても。
微笑んで、キスをしてくれるだろうから。

「それは、素晴らしき臨終になりましょう……」

去り際に、彼は私の唇にキスを落とした。
あの骨に触れた唇で。
私は鼓動が跳ね上がるのを感じた。






●出会ったばかりの頃。
こんな恋です。(笑)









+傷+


私が、自分を大切にしないと、貴方が哀しみ、怒る。
貴方が、自分を粗末に扱うと、私が哀しみ、怒る。



私を遠ざけようとした貴方が。
自分を傷つけていないといいな、とふと思った。