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日本橋麒麟の翼像
 

パソコン族元年

「田所教授、パソコンが生まれました」
 田所の助手である安西が目を大きく見開き声を荒げて田所を見た。
「安西君、よくぞ、やった」
 田所も甲高い声を上げて安西が手にしている生まれたばかりのパソコンを見た。安西は手にしたパソコンを田所に見えるように傾けた。
「こうして見ると、かなり大きなCPUを持っているようだな」
 そういった田所は、安西が手にしているパソコンを両手で取り上げると、目の高さに持ち上げ、体の周囲を念入りにチェックをしていった。その様子を安西は目で追ってから
「賢そうなメモリもしっかり備わっているようです」
 安西も初めての経験だけに声が平常にならない。その様子を見守っていた研究所スタッフ総勢12名が、生まれたばかりのパソコンを取り囲んでいた。
「教授、命名をお願いします」
 かがんでいた安西が直立の姿勢で田所に向くと厳かに言った。スタッフ一同も揃って、田所を凝視した。
「そうだなあ。これは世界の希望の星だ。この子はこれから明るい時代を切り開いていくに違いない。まさに、その先頭に立ったと言えるだろう。人工知能から発達を遂げ、人工肉体へと進化を遂げた。彼らは今日新たな一歩を踏み出した」
 田所はしばらく黙った。10秒の間があって、口を開いた。
「もう、この日の来ることは感じていたが、まさか、本当に現実になるとは思わなかった。夢ではない。名前はハル、だ。あの春夏秋冬のハルだよ。ハルが始まった」
 何処からともなく拍手が沸き起こった。
「ああ、新人類の希望に溢れた春が始まった」
  *
 大川真一は街の会計事務所に勤めるサラリーマンである。会計事務所は所長の田中誠と大川の二人だけであるが、年度末の繁忙期にはバイトを雇っている。とは言っても、田中の一人娘で、高校3年生の田中舞が手伝いとして事務所に来ている。田中は娘に事務所を継がせたいと思っているが、思惑はそれだけではないようだった。
 田中は机の上の書類を手提げ鞄に詰めている。
「大川君、僕はこれからお得意さんを回ってくるから、そこの伝票の入力を頼んだよ」
 田中はそう言い残すと、電動スクーターにまたがった。
「あ、来週の火曜、7時、いいね。予定しててね」
 そう言い残すと、スクーターと共に姿は消えた。消えると、机に向かっていた舞が顔を上げた。両手を上に伸ばして大きな背伸びをした。
「ああ、やっと行ったわ。ところで、大川さん、一人で暮らしてるって本当ですか?」
 舞はくりくりした目を大川に向けた。
「ああ、そうだよ。何でそんなこと聞くの?」
「だって若いのに一人暮らしって、いいな、と思って。あたしのお父さんはあんなだから自由がないの。勉強しろ、勉強しろ、って、休みになれば、仕事の手伝いしろって、ここに仕事に来ている訳。もう、あんなうるさいお父さんの顔、家の中だけで十分」
「お父さんは君のことを心配してるんだから分かってあげなけりゃ、それに、家族は大事だよ。大切にしなければ」
「ええ、ありがたく思ってる。大川さん、一人で暮らしているんだから、家族、大切にしてないってことでしょ?」
 舞は少し口をとがらせてしゃべった。
「僕にも優しい家族はいるさ。もちろん、連絡は取ってるさ、一緒に住んでいなくてもね」
「はい、分かりました。ところで、大川さん、来週の火曜の7時、お父さんに誘われてるの?」
「夕食に誘われてる。君の家族と一緒に」
 大川が口にした内容にどう答えたらいいか分からず、舞は少し困惑した。
「そうなの? 今まで家族だけで行ってた家族の音楽鑑賞に大川さんもお父さん、声を掛けたんだ」
「ああ、僕らパソコン族は音楽を理解出来る人はまだ少ないけど、僕の世代は結構理解出来てるんだ」
 舞は目を大きく開いて聴いた。
「パソコン族、って、大川さんがそうなの? 」
 舞に聴かれた大川は着ていたシャツの袖をまくり上げると、白い腕を出した。
「舞ちゃん、見てご覧」
 大川に言われて、舞はその腕をじっと見つめた。
「大川はまくった左腕を反対の右手でつまむと思い切り引っ張り上げた。腕の皮が5センチほど伸びて、薄くなったかと思ったら、パチンと音を立ててちぎれた。ちぎれた穴の中を大川は舞のほうへ向けた。筋肉が見えた。
「キャー」
 舞は驚いて大きな声を上げた。
「僕の身体は全て人工肉体で出来ている。これがパソコン族だ。特殊な身体と言うだけさ。ほら、よく見ててご覧」
 舞は大川の腕を言われるままに見ていた。大川がちぎった皮膚の穴は30秒ほどすると、小さな穴に縮んでいき、最後には消えてなくなってしまった。まるでマジックショーを見ているようであった。それを見た舞は口を開けたまま声も出せずに沈黙していた。
「ちょっと舞ちゃんには刺激的だったかな? 僕らパソコン族は不死身なんだよ。だから危険な仕事に就いている仲間も大勢いる」
 舞は大川の肉体の秘密を知って心配になった。将来、大川も危険な仕事に転職してしまうのではないのか。舞は大川に淡い恋心を密かに抱いていた。父親から事務所の手伝いを頼まれると、大川に会えるのを楽しみにもしていた。大川の秘密を父親が知ったら、きっと二人が付き合うことなど許してくれないだろう。舞は書類の片付けも捗らないほど、頭の中は大川のことで一杯になってしまった。舞は大川が3年前、父親の会計事務所に入所したときに会ってからずっと気に掛けた存在になっていた。最近では、父親に事務所の手伝いをしなくていいか、と聴くまでになっていた。
 しかし、どうして恒例であった家族音楽会に誘ったのであろう。彼も誠にとって家族と同じ存在になってきたのではないか。きっとそれほど、父は大川を信頼しているのであるな、と舞は思った。それなのに、彼が人間でないと知ったらどんなに落胆するであろう。特殊な能力を大川が会計事務所の勤務で満足している訳がないと思った。
  *
 音楽会当日。
 いつものように田中家は上野の国立文化音楽会館に向かった。舞と両親が通路から席に順番に座った。開演まもなくとあって、席はほぼ埋まっていた。順に舞たちの席にも観客が座り空席が消えていった。開演1分前になったが、舞の隣が空席のままだった。
「大川君、遅いな」
 誠がそう呟くと同時、開演のベルが鳴った。辺りが徐々に暗くなったとき、「すみません」と言って近づいてくる声が聞こえてきた。その声が徐々に大きくなり、舞の耳元で囁かれた。「遅くなったけど間に合ったね」
 大川の低い声だった。顔は全く見えない。暗い中を普通に歩けるなんてやはり大川は普通の人間ではないのだろう。舞は不思議だった。パソコン族とは一体何者なのか。人間の能力を超えた種族なのであろうか。
 音楽会が定刻通り終了し、舞たちは誠が予約していたフランス料理店に向かうことになった。歩いて5分ほどのところにあるからそこまで歩いて行くぞと誠が言う。誠は妻とそろい、その後ろを舞は大川の隣に並んで歩いた。2分ほど歩いたときだった。後ろから大きな女性の悲鳴が聞こえた。舞たちは後ろを振り向いた。20メート先で女の人が倒れていた。その側に男がいて何か叫んでいた。
「皆殺しだ、てめえら、みな殺しだ」
 舞たちにもはっきり聞こえて来た。そのとき、大川が舞の側から離れ、その男に向かって走って行く。男は倒れた女性に馬乗りになって何度もナイフらしき物を刺している。周囲の人間が悲鳴を上げ遠くに散っていく。男はそれを見ると、立ち上がり、逃げていく足の遅いおばあさんに目を付けたと見え追い掛ける。男はおばあさんの背中にナイフを刺していた。いや、その瞬間に大川の腕が男のナイフをつかんでいた。大川の拳が男の顔面に向けて放たれた。男の顔がぐしゃりと変形した後、5メートルほど空中を舞ってからコンクリートの地面に落ちた。
 それを見届けた大川は倒れた女性に駆け寄った。刺された女性の傷口を大川は押さえていた。舞は大川のもとに駆け寄った。
「舞ちゃん、救急車を呼んで」
 舞は震える指で携帯電話の通信ボタンを押した。たどたどしく救急車の要請をすますと、舞も大川と同じように女性の傷口を両手で押さえた。誠も駆け寄ると、傷口に手をあて押さえた。舞は泣きながら誠に叫んだ。
「この人、死んじゃうの? 」
 すると、大川が側で叫んだ。
「死なない。誰もこんなことで死なせはしない。僕が生まれたのはこのためなんだよ、舞ちゃん」
  *
 大川はあの事件以来、誠の会計事務所を休んでいる。誠にこれからの大川のことを聴いても分からないと言うだけで、舞は会計事務所の机に向かいながら、ぽかんと所在なげに時間を過ごしていた。
「お父さん、大川さん、まだ連絡ないの? 」
 ああ、とだけ答えた誠はいつものように何事もなかったようにパソコンの前に座って仕事をしている。舞が時計を見ると、もうすぐ、12時になる。そのとき、
「ただいま、戻りました」
 玄関に大川がいつものように笑って入ってきた。舞は嬉しくて無意識のうちに、駆け寄って大川に抱きついていた。泣きながら舞は大川に聴いた。
「大川さん、ここ、辞めて、転職したんじゃないの? 」
 大川は不思議そうな顔をした後、笑った。
「これが僕たちの仕事さ」
 舞は大川たちの仕事を初めて聴いた。普通に生活し、普通にアクシデントを解決する。それが大川たちの仕事だそうだ。大川たちの仲間は、普通に生活しながら、不慮の災害を解決する任務を背負っているという。
「大川さん、ここにいられるの? 」
 大川の胸に身体を埋めていた舞は、涙をこぼしながら大川を見つめた。
「もちろんさ、ずっとね、いいだろ、舞ちゃん」

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