人生捨てたもんじゃない

 

 山口昭夫は地上11階建ての屋上に立っている。去年、リストラされて早10ヶ月、再就職先を何十件となく当たったが何処もこの震災不況で門前払いである。雇用保険の手当てもついに切れてしまった。最後のお金で買ったウイスキーのボトル。ラッパ飲みで一気に飲み干す。空を見上げてから大きく息を吸う。ふと、小学生の時初めて水泳の飛び込みをしたときの記憶が蘇る。

(あの頃は良かったなあ)

 こんな生活、予想もしなかった。眼下に見える街が何処までも広がっていた。柵を乗り越えると、突端に立ち、ひょいと地上に向かって飛び込んだ。体が宙に浮いた。

(うわ、こえーよおおお)

 山口はいやに冷静に思った。落ちながらマンションの部屋の様子をしっかり眺めている自分がいることを不思議に思った。何故にこんなに冷静でいられるのであろう。地上10階の部屋の中では女がフライパンを振り回しながら男を追いかけている。頭を両手で抱えている男は、許してください、と叫びながらキッチンテーブルの周囲を逃げ回っている。

(あ、どじだな、転んだよ。ああ、馬乗りになられてしこたま殴られていらあ、かわいそうに、生きていてもあれじゃねえ、情けないよ)

 山口はそんなシーンを逆さに見ながら女に打たれる男を哀れんだ。

(しかし、何でこんな場面を見られるんだろう)

 落ちていくのであるから一瞬のはずである。それなのに、何故、こうもテレビを見ているように見えるのであろう。山口はまたしても不思議に思った。

 地上9階、窓から煙が出ている。

(うそー、火事かよ? )

 山口が覗き込むように見ると、5歳くらいの男の子が台所で花火をしている。

(ばっかやろー、なんていうことしてやがるんだ、このくそガキがあー。親は何処だ? 何だよ、隣のリビングでのんきにテレビを見てるぞ、くそ婆あ、おい、火事だー)

 その声に母親がちらと窓の外を見た。山口と目が合った。

(おい、嘘だろー、何で目が合うんだよ)

 母親はすごいスローな動きで窓に寄って来ている。山口はどうすることもできず、落下するばかりである。

(まあ、隣にいるなら、何とかなるかな。もう、俺は死んでいく身だからな、どうでもいいや)

 山口は地上5階に来た。

(あれ? ちょっと、階を飛び越したんじゃないか? 一気に地面に近づいてしまったぞ)

 山口は地上5階に来ていた。

(おい、じいさん、大丈夫か? )

 高齢の男性が饅頭を喉に詰まらせたようだ。苦しそうにもがいている。

(ありゃ、駄目だな、かわいそうに。おっちぬよ、間違いなく)

 そのとき、詰まらせた饅頭らしき塊を吐き出した。一段楽している爺さんの顔を見て山口もほっとする。

(人の死に目を見て、助かって喜んでいる。俺もめでたいよなあ。これから死ぬっていうのにさ)

 山口は地上4階に来ていた。

「おお、いよいよ地面までまもなくだなあ。街路樹の銀杏が直ぐ横にあるもの。スズメが山口を見てびっくりして一斉に飛び立つと違う木に向かって逃げて行った。

 山口は地上3階に来ていた。さすがに地面が近づいてくると、心臓がどきどきする。

(なんか地面が迫ってくるっていう感じだよなあ。いよいよ、俺も終わりかあ。しかし、あっけなく死ぬものかと思ったが、こんなにも余裕があるものなの? そういやあ、人は死ぬ前、自分の一生を走馬灯のように見るという話を聞いたことがあったがこれとは違うよなあ、人の話はあてにならないものだ)

 山口は一人合点した。3階も、2階も、詰まらないことにカーテンで締め切られていた。

(いや、あれ、2階のあの部屋のカーテン、少し開いているぞ。あれ、何か筒が出ている。ありゃ、ライフル銃だよ)

 いきなりカーテンが開けられた。男がわめきながら銃を打ち出した。

(やべえ、無差別殺人が始まるぞ。これは何としても防がなければならない。しかし、この落ちていく身で何ができるというの? )

 山口は考えた。何も持っていなかったろうか。胸を探った。ウイスキーのビンが入っていた。さっき飛び降りる前に今生の別れの門出だといって飲んだウイスキーボトルである。捨てないでよかった。これを一か八かで奴にぶち当ててやる。当たればラッキー)

 山口はボトルを思い切り男に向けて投げ放った。ボトルは弧を描きながら男のこめかみに当たり男は後ろへ倒れ気絶したようである。その拍子に銃から1発だけ放たれた。その1発が児童公園で遊んでいる子どもたちに向かって飛んでいくのが見える。

(やばいぞ、何とかしなければ。こんな状態で何ができるというんだ)

 山口は一か八かで飛行機のように両手を伸ばした。こんなことして一体なんの足しになろう。山口の落下が突然カーブを描いた。弾の飛ぶ方向に向かって山口の身体が飛んでいく。

(おい、これ、漫画だよ、まじ、嘘ピー)

 飛んでいる弾の軌道の前に山口のお腹が塞ぐ。

(いてええ)

 山口はその場に落下し倒れた。

「大丈夫ですか? 」

 山口はアパートの中庭に集まった人たちに囲まれた。

「救急車を誰か呼べええ」

 山口は慌てて起き上がった。腹の辺りから弾丸がポロリと地面に音を立てて落ちた。

(嘘だろ、俺ってスーパーマンだったの? )

 小学生の頃、山口は父から聞かされた言葉を思い出した。

「お前は空から振ってきたんだよ、信じられないことだけど」

(うっそー、あれって本当だったの? )

 以後、山口が政府機関に特別待遇で就職したことは言うまでもない。

  

超短編小説の目次に戻る