理不尽
「てめえ、ぶっ殺してやる」
「ひえー、僕が何をしたというのです。止めてください」
相手の男は持っていたナイフを井上に向けて突進してきた。腹に痛みが走る。ナイフで刺されたのかもしれない。激痛で井上は目を開けた。寝床の中だった。夢と分かりほっとする。大体、僕は人に恨まれるようなことはしないで生きてきた。こんな夢を見るのも、ストレスに違いない、と自分に言い聞かせた。
その夜、井上は自分が殺されることなどあり得ないことを自らに言い聞かせた。安らかな気持ちで床に着いた。
「てめえ、ぶっ殺してやる」
「ひえー、僕が何をしたというのです。止めてください」
相手の男は持っていたナイフを井上に向けて突進してくる。ナイフを押し当てられた腹に痛みが走る。その痛みで井上は目を開け飛び起きた。上半身を上げて暗い部屋の中で、自分の腹をさする。何処も異常はない。全く同じ夢を二晩続けてみた。目覚まし時計をみる。午前三時。目が冴えきってしまい眠れそうにない。また、明日もこの嫌な夢を見るのではないか。眠れず時間が過ぎる。午前六時。腫れぼったい目をさすりながら布団から出て背広に着替える。いつもと同じ道を通り駅に向かいホームに立つ。
「ああ、夢で良かったけど、こうも立て続けでは身体が参るな」
二晩ともそんな夢である。夢ならあんな辛い夢何度みても平気だ。そう自分に言い聞かせる。駅の案内放送が聞こえてきた。
「まもなく、三鷹行き、上り電車が来ます、白線より下がってお待ちください」
井上は足元を見る。白線を踏んでいた。後ろに下がる。何か踏んだ。慌てて後ろを見ると怖そうな顔をした男が真後ろに立っていた。
「てめえ、良くも人の足を踏んだな」
顔を真っ赤に紅潮させた相手の男は手に何かを持っていた。光もの。井上はとっさに身体をかがめその場に座り込んだ。
「すみません、すみません」
社会の中で生きている限り、人に迷惑を掛けずに生きるなど、不可能である。
「お客様、大丈夫でしょうか? 」
目を開けると、駅員らしい制服を着た男がいる。自分の腹を真っ先にさすった。腹に異常は無い。
「何だ、また、か? 」
井上は安心し医務室のベッドから起き上がり側にいた駅員に頭を下げた。室を出た井上は会社に電話を入れ、体調が優れず一日休みを取ることを告げた。
「今日は家に帰ってゆっくり休もう」
駅の改札を出る。自宅に向かって歩いていると、誰かが後ろからぶつかってきた。背中に激しい痛みが走った。振り向くと、三0代くらいの男が井上を見て笑っている。井上は人にぶつかっておいて何がおかしいのか聞いてみたかった。声を出そうとしたが声が出ない。体中の力が抜けていく。その場に腰から崩れ落ちた。男は、二0センチほどのナイフを両手で振り回している。両手が真っ赤になっている。悲鳴を上げながら沢山の人たちが遠くへ散っていく。逃げ遅れた女性が顔を引きつらせ絶叫していた。男は泣き叫ぶ女性の後ろ髪をつかむと後ろに引き倒した。倒れながらも泣き叫ぶ女性に対し、力任せに髪を引っ張り引き摺っている。観念した無抵抗の女性の胸を男はナイフで二度、三度、突き立てた。歩道に真っ赤な液体が流れて広がっていく。井上にはこの惨状がB級ホラー映画を見ているように思えた。恨まれはしなくても殺されることはある。今までの夢は予知夢だったのか。そんな能力があったなんて気づきもせず生きてきた。自分の腹をさすりたかったが手を動かすことができない。これは夢か、現実か、どちらなのか。あんなに痛かった痛みも消えている。今、とにかく全身が寒い。家に帰って熱いコーヒーを飲んでぐっすり寝よう。眠って起きたら、また、安堵できる日常が始まる。いつもと変わらない平々凡々の日常。それで十分である。
「眠いなあ」
路上に横たわったまま、楽しい明日を思い描くと自然に笑えた。これもきっと悪夢であると思うと、気持ちがとても楽になった。さあ、もう眠ろう。また、明日があるから。
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