貨車

 

 

 線路伝いに走っている男がいる。この男は山口という36歳のサラリーマンである。今、山口は借金取りから逃げるため、道なき道を闇雲に走っている。思い返せば、彼の人生は走ることの毎日であった。それは、彼が小学生のころに始まる。

それは体育の時間であった。担任教師の大空の提案で、マラソンもどきをやることになる。無理をして走らない、大空が決めたルールであり、勝ち負けにこだわらず、己の限界を知ることが目的であった。男女混合で校庭に敷いた三百メートルトラックを誰が一番たくさん走ることができるか。速い遅いの時間は問わない、というお遊びであった。お遊びでもゆっくり走っていた体力のない女子から早くも脱落者が出た。

「嫌よ、こんなに走ったことなんかないもの。こんなの通信簿に関係ないんでしょ」

大抵の女子がそんなことを言い捨て脱落していった。お遊びでも、女子に負けられないという男子は、息をぜいぜい上げて走った。男子の大方は、女子に負けた根性なしと後ではやし立てられるのが怖かった。だから、彼らは死に物狂いで走っていた。しかしながら、やはり小学生、体力がまだないと見え、男子も徐々に脱落者が出始め、結局、スポーツ万能の男子三名と運動音痴の山口の四名が残っていた。

「おい、嘘だろ? 山ちゃん、いい加減、柄にもないこと、止めようぜ、おまえって、運動音痴なんだから、な、 な、止めちゃえよ」

スポーツ万能男子の三名が代わる代わる山口に声を掛ける。

「止めたいなら、お前らが止めればいいさ、俺はまだ走れる。何処までもな」

山口は顔を紅潮させながら悠然と返す。

「くそ、おめえ、後でひどい目に合わすぞ、いいのか? おめえなぞ、金輪際、仲間はずれだぞ、いいのか? 」

「何だ、おめえら、俺を、脅すのか? 」

それから十分後、黙って走っていた三名もついに意気が上がり始め、ついに脱落した。

「嘘だろ? 何だよ、山のやつ、どうなってるんだ」

山口はまったく疲れることを知らず、それから何十分も走り続けた。授業時間の四十五分丸まる小学生が走り続けているのであるからさすがに大空も幾分心配になってきた。

「ねえ、山口君、いい加減に止めなさい」

 大空は山口が突然倒れその場で息を引き取るシーンを妄想し顔を青くした。お遊び感覚で始めた無責任教師が、無力な生徒を安易に死なせた、という新聞の一面が現れた。

「山口君、いいからもう止めなさい」

 ついに大空は山口の行く手に両手を広げ、彼を遮ぎるように立ちはだかった。こうして、マラソンもどきのイベントは終了した。それ以来、クラスの生徒はいじめるどころか、山口を畏敬の念で見るようになった。

「あいつは化けもんだ、何するか分からんぞ」

 

それから、彼の走りは磨きがかかり、中学生のころから県内のマラソン大会に出場し、高記録を出していった。A中の山口と名が知れ、高校に進学すれば、A高の山口と名が知られていった。

しかし、大学生のころ、駅伝の祝賀パーティーで酔いつぶれ、気がついてみれば丸裸になって新宿の繁華街を走って区の迷惑条例に引っかかりマスコミにたたかれた。

「マラソン界の期待の山口、今度はストリーキングで高記録」

「フルマラソン、興じて山口フルチンマラソン」

街を歩けば、「裸の大将、ストリーキング」などと揶揄される有様だった。あらゆる大会に当然出場自粛、大学四年生になり、就職先の面接会場でも「あ、フルチン山口くんだよね」と嘲笑された。当然、何処も不採用。やっともぐりこんだ会社が建設の下請け会社Kであった。元来酒好きであった彼は憂さを晴らすために酒を浴びるように飲んだ。

そして、気がつくと、毎日、借金取りが家に来るようになっていた。アパートの玄関ドアをたたくいかつい顔をした男たちの日参には鈍感な山口も心底疲れた。

「ねえ、山口さん、人の道に外れたことをしちゃいけねえよ、借りた金はしっかり返していこうよ。いるんだろ? 面出せよ、このフルチン男」

 彼はドアをたたく音に恐怖して布団に頭からくるまった。ドアの音というより、あの罵声がこたえた。たった、一度、裸で走ったためのどん底人生、神がいるなら救ってほしかった。もう一度、やり直したい。心底そう思った。

そして、気がついたら、線路を走っていた。いったい何処から何時間走ったのかまったく覚えていない。あの、小学生のマラソンのときのように何かを求め走っていた。何処までも走れる気がした山口は何処までも走っていけるなら走っていこうと思った。そして、あの過ちを誰にも責められないところまで、行き着きたいと願った。

とある駅の停車場にたどり着く。貨物列車が整然と並んでいる。遠くの貨車がかすんで見えない。一体、何ていう駅なのであろうか。こんなにあるなら一つくらいもぐりこんで、これに乗ってどこか遠くへ逃げよう、そう思った。貨車のドアを開けようと側面に回る。山口は目を見張った。色鮮やかな人物像が貨車の側面一杯に描かれていた。何か懐かしい絵である。4人の親子と思われる男女2名ずつの顔が貨車の側面に大きく描かれている。

 何故懐かしいか、そのわけが分かった。どの顔も笑顔で幸せに満ち満ちている。

「いいなあ、いい表情だなあ」

山口は改めて貨車の絵を眺めた。貨車の隅に目をやると、数字が書かれていた。1998年、いったい何の年号だろう、彼は思った。次の貨車を見る。20両ほどの貨車が連結されているが、どれも、親子の顔が描かれている。山口はそれぞれの貨車を順番に歩いて見始めた。8人家族であったり、5人家族であったり人数はまちまちであり、人数に法則はないようである。

どれも家族の写真ばかりである。どれを見ても心温まる和やかな表情をした絵であった。それから、さらに歩いていく、何時間、貨車を回ったことであろう、ある貨車の前に差し掛かり、山口はぽかんと口を開けて見つめた。

「嘘? 俺の顔、これは? それにしてもこの貨車の中に何が入っているのだろう? 」

 山口はその貨車の扉の取っ手に両手を掛けてゆっくり開けていった。中はからっぽ、何もない、山口は貨車の中に這い上がって転がり込んだ。入った途端、扉は閉まってしまった。

「やべえ、」

 慌てた山口は扉を開けようとしたがびくともしなかった。真っ暗な中で扉を何度も開けようとした。暗いくらい闇に、中で何をすることもできず、山口は転がった。

「ふん、どうにでもしやがれ、どうせ、生きていても仕方ない身だ」

 転がっていると、実に穏やかな気持ちになっていった。何か懐かしいにおいがしてきた。これは味噌汁のにおいではないか。山口が目を開けた。すると、台所に立つ亡き母が料理を作っていた。

「母ちゃん、どうしてそこにいるの? 」

 思わず声を掛けた山口は起き上がった。

「やっぱり、朝は味噌汁を飲まんと力が出んだろ? 」

 ちゃぶ台が目の前に置かれていた。母が座り、ご飯を小櫃からよそっている。母のにこやかな笑顔に心が和んだ。

「さあ、食べたらおゆき、一からやり直しだよ」

 貨車の扉が開いていた。

「うん、行って来る」

 そう言って山口は貨車から飛び降りた。振り向くと貨車の扉はしまっていた。次の貨車を見る、何も描かれていない貨車がある。彼はその貨車の扉を開けた。眩い光がこぼれてきて目がくらんだ。くるくる回る世界に山口は吸い込まれるように意識を失った。

 

「山口君、大丈夫、ねえ、大丈夫」

 誰かに声を掛けられた山口は目を開けた。辺りを見回すと小学校の校庭であった。その校庭で山口は横になっていた。山口は小学校の体育の授業で初めてマラソンをした日に時間が戻っていた。山口自身、もう、時間が戻ったという意識はなかった。何故かうれしくて、直ぐに起きようとした山口の頭の中はくるくる回り、当たりを見ようと思っても目の前が回り、焦点を定めることができなかった。駆け寄ってきた担任教師の大空が目を丸くして心配そうに山口を覗き込んでいた。

「山口君、大丈夫? ねえ、大丈夫? 」

 大空は目に涙を浮かべ叫んでいた。

「先生、大丈夫です。ちょっと苦しいだけ、それと、すごく変な夢を見ていたんだ、夢でよかった、僕、小学生だもの」

山口は心配する大空に向かって申し訳なさそうに答えた。幾分呼吸が楽になってきたので、改めて周りを見回した。クラスのみんなが遠巻きに山口を囲んで心配そうに見つめていた。

「やはり、走りスギよ、山口君、良かった、止めて」

 大空は涙を流しながら山口を見下ろしていた。すると、側にいたクラスメートの田中が声を出した。

「山ちゃん、あんまり無理するなよな、お前、運動音痴なんだから」

「ほんと、ばっかみたいに、マジ走りしてさ」

 田所茜が涙声を出していた。

「みのほど知れよ、このタコが」

 デブの大橋が偉そうに言った。

「山、バカだからな、死ななくちゃ、分からないんだよ。でも、死ななくて良かったな」

 王河内謙吉がそう言うとウオンウオン絶叫するがごとく泣いている。

 みんな、好き勝手言っていたが泣いていた。くしゃくしゃの顔は温かな表情であった。その醜い形相を見た山口は心の底から笑えた。

「みんなもっといい顔しろよ、持てないぞ」

山口は目を閉じた。もう、いいんだ、ゆっくり、これから、時間をかけて走れば、いいんだ。慌てずゆっくり走る。

数日後、山口はマラソン中学生の部に出場するが入賞を大きく外れていた。

「山、やっぱ、おめえはのろまだもの、入賞なんてあまいぞ」

「ふふ、やっぱし、駄目山よね? 」

クラスのみんなが声を掛けてくる。山口はああ、生きてるなあ、と思った。みんなが僕に声を掛けてくれる。そう思うととても心が安らいだ。いいんだよ、このまま、このままで生きていこう、走りながらゆっくりと進もう。

 

 



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