南無妙法蓮華経
大月鋼(おおつきこう)はすべてから逃げていた。彼の右大腿部から鮮血が染み出ていた。ときどき、意識が遠くなる。楽になりたかった。 彼は老朽化した倉庫の前でついに力尽き、前かがみになり転がった。顔を上げると、ぼんやりする視界からさび付いたドアが見えた。よろける体に鞭打ち、やっとの思いでドアの隙間に身体をねじ入れた。 中は闇だった。ドアからこぼれる月明かりを頼りに奥へ進んだ。そして、闇の中に荒い息を押し殺し、身を潜めた。できることなら、このまま闇に消えてしまいたい。そう願った。 ガツガツ、ガツガツ 足音が近づいてくる。 「もう来たか! 」 数人の人影が通り過ぎるのをドアのすき間から見た。そのとき、ドアの隙間から一条の光が差し込んだ。まぶしさに目を閉じた。光が縦横に走った。2分ほどで足音は消えていった。 ふう、と彼は大きく息を吐いた。我に返ると先ほどから知らないうちに何かを握りしめていることに気が付いた。 「あー? 」 暗闇になれてきた目を凝らし手元を見つめた。お経の本だった。 「なんだあ? 」 お経の本を闇の奥に向かって投げつけた。バサバサと音を立てた。まるで羽ばたいたようだった。 「鳥? 」 意識がふっと遠のく。彼は首を左右に振った。同じ場所に何時間、あお向けに寝ていただろう。ドアの隙間から入る月明かりが徐々に動いた。 バサバサバサ バサッバサバサ 鳥がまた羽ばたいた。羽ばたきが少しずつ近づいてくる。彼の出血する足に重みを感じた。鳥が足におりたようだ。突然、ドアからの光が差し込み、足下を照らした。なんとお経の本が彼の出血する足に巻き付いていた。信じられない状景だが、意識のはっきりしない彼には幻のように思えた。 (なんだ、お経が包帯の代わりになってくれてるのかあ? ) さっきから独り言を呟いていた。しかし、彼の唇はすっかり動かなくなっていた。力の入らない指を動かし、お経の本を何重にも足に巻き付けようと思い付いたが、もう腕を上げることも動かすこともできなかった。お経はするすると彼の足にゆっくりと巻き付いていった。 * 「鋼、起きなさい。朝だよ」 鋼は目を覚ました。パジャマ姿で四畳半の自分の部屋で寝ていた。窓から朝日が差していた。蒲団の横に学生服が脱ぎ捨てられている。懐かしいN中の学生服だった。 「何だ、今までのは……夢かあ。嫌な夢だったなあ」 「なんだい、また変な夢でも見たのかい? 」 隣の台所で母みや子の後ろ姿が見えた。いつものように朝飯を準備していた。 「鋼、学校に遅れるよ」 「うん、起きるよ。ねえ、父さんは? 」 「ああ、今日は現場が遠いらしくてね、とっくに出て行ったよ」 鋼は顔を洗って台所の卓袱台の前に座った。 「鋼、ちゃんと仏様にナンマイナンマイしたかい? 」 「もう、毎朝毎朝、どうしてこれやらなきゃいけないんだあ? 嫌になっちゃうよお」 「そんなこと言わないんだよ。ちゃんといつもおまえを守ってくれるんだからね」 「もう分かったよ」 鋼は席を立つと台所の脇に備えてある小さな仏壇の前に座り直し手を合わせた。 「仏さん、困ったときは頼みまっせえ」 「こら、そんなこと言って、ばちあたるよ」 「よけるもーん」 「もう、そんなばかばかり言って、本当にばちが当たるよ」 「はーい」 「もう」 鋼が仏壇を見ると、木製の書見台に何かの本が置いてあった。手に取ると、漢字だらけで頭をひねった。 「母さん、これなんだろ? 」 みや子が振り返り、目を細めた。 「お経のご本だ。有り難いお言葉が書かれてるんだよ。ありゃ、おまえ、今まで気が付かなかったのかい? 」 「え、まあね。それでさ、どんなこと書いてあるんだ? これ」 「母さんも難しいことは分からないね。でも有り難いと思ってそれを毎日唱えると必ず仏様が守って下さるんだ。おまえも読むといいよ」 「俺、こんな難しい漢字読めないよ」 「よく見てみなさい。ふりがなが振ってあるだろ? 」 「あれ、ほんとだ」 「父さんがふってくれたんだ」 「へえ、父さんって頭いいんだねえ」 みや子は笑いながらご飯を茶わんに盛っていた。 「そうだね、最初のところがナムミョウホウレンゲキョウって言うんだ。これだけ唱えてもいいそうだからね」 鋼は、ナムミョウホウレンゲキョウ ナムミョウホウレンゲキョウと、口ずさんでみた。その様子を見てみや子は、ああ、これでこの子も仏様が守って下さる、と心から安心した。 * ナムミョウホウレンゲキョウ ナムミョウホウレンゲキョウ 鋼は薄暗い倉庫の中で横たわりながらお経を唱えた。 「鋼、大分上手になったな」 「おじいちゃん、どうしてこんなところにいるの? 」 「おまえを迎えに来てやったんだ。いいところへ連れて行ってやるからな。楽しみにしているんだ」 「うん」 「おまえは悪いことをしてしまったからおじいちゃんのいる天国へは行けなくなった。でも、大丈夫さ。ナムミョウホウレンゲキョウと唱えながら冥土の道を歩くんだ。そうすれば天国へ行けるからな。安心しな」 「うん、おじいちゃん、わかったよ」 *
息子鋼の火葬を終えて4畳半一間のアパートへ戻った大月源太郎(おおつきげんたろう)とみや子夫妻は、部屋の片隅に置いてある卓袱台の上に骨壺を乗せた。用意していた蝋燭に火をつけ、線香に火を点す。静かに合掌した。 「鋼、お帰り」 みや子も入れ替わりお骨の前に座り、線香を点し合掌した。長い合掌の後、みや子が腕をおろすのを源太郎はじっとそばで見ていた。 「あの子が家出して8年経つんですねえ」 そう言いながらもみや子はまだ手を合わせていた。 「ああ、もうそんなになるかなあ」 「こういう人生もあるんですねえ」 「ああ…… 」 源太郎は祭壇の写真に目をやった。 「写真を取っておいて良かったですね」 「ああ、高校入学式だったな」 「あの子ったら写真に取られるの嫌がって。本当に恥ずかしがり屋で…… 」 「ああ、鋼には楽しい思い出をたくさん作ってもらったな」 「やっと見つかったら遺体で戻るなんて、あっけなかったですねえ」 みや子は仏壇のお経を手に取ると、題目を唱えた。 「ナムミョウホウレンゲキョウ、ナムミョウホウレンゲキョウ…… 」
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