アラビアの蜃気楼

 

 

 強い日差しが降り注ぐ中、飛行機のタラップを降りると、黄色の砂を含んだアラビアの風が顔に吹き付けてきた。口を開けていると、砂が入り込んでくる。児玉信二は唇に力を入れ閉じた。体が熱で火照り脂汗が額を流れた。どうやら、風邪をこじらせたようだった。ふらふらする足を引きずりながらやっと飛行機に乗ったのだが、立っているのが辛く、何度も壁にもたれかかった。

 

滑走路の脇にある小さなターミナルロビーまでふらふら歩いていく。室内は薄暗い。外の明るさが強かったためか、熱のせいか人の顔が良く見えない。児玉は辺りを見回した。現地支局の田中という男が迎えに来ることになっているのだが、それらしい男は見当たらない。

 

一緒に降りたアラビア人が少しずつ消えていくなか、言葉や地理もおぼつかない異国の地で児玉は不安にかられた。1カ月の詰め込み研修を受けてきたが、まるで心もとない。もともと、中東は情勢が不安だから気乗りはしなかったのだ。

 

「二年間行って戻れば、本社の課長だよ。たった二年だ。このチャンスを棒に振る手はないよ、君」

 

上司である山崎支店長の推薦で、アラビア行きが決定した。なんとも気分が晴れない。風邪のせいばかりではなかった。目の前にあるベンチに腰掛けた。座るとギシリと椅子がきしんだ。児玉は朦朧とする頭を休めるようにまぶたを閉じた。

 

 *

 

屋外は相変わらず風が砂埃を巻上げているようだ。黄色い砂が玄関の開いたドアを押しあけ入りこんでくる。やがて児玉の足元にキラキラと輝いた黄色の砂がたまっていく。足元が徐々に埋まり始めた。それをぼんやりと眺めていた。児玉は動くことができなかった。砂が児玉を埋めていくのか、児玉が砂の中に埋没していくのか、彼の感覚はすっかり鈍磨していた。

 

砂が顎まで来たとき、児玉の目の前に立ち止まる影があった。首をゆっくり動かし影の元をたどろうとした。鼻を上にむき出した毛むくじゃらのらくだが1頭、児玉を見下ろしていた。何か話しかけているように見えたが、風の音に掻き消され聞き取れなかった。らくだは哀れむような目で児玉を見下ろしていた。

 

次の瞬間、児玉はらくだにまたがっていた。はるか先に森がゆらゆらと現れた。太陽の日差しが全身をジリジリと焦がすように照りつけてくる。熱っぽい体に太陽の日が差す。のどがからから渇く。乾きを潤したい。児玉はらくだから転げ落ち気を失った。

 

冷たいものが唇に感じた。閉じていたまぶたを開く。ぼんやりと霞む目を凝らすと、髪の長い女がいた。児玉の唇に、彼女の唇が近づき重なった。口付けをしながら緑色の瞳で児玉を見つめていた。気が付いた彼女は唇を離し、何かしゃべったようだった。じっと眺めていると女の顔がまた児玉の顔に近づいてくる。児玉の口に女の口が重なった。のど奥に冷たさが伝わる。女が口移しで児玉に水を含ませてくれていたのだった。

 

それから何日か女は動けない児玉に付き添って介抱してくれた。黄色い果実をかじりその実を口移しで児玉の口に押し込んできた。そうやって、何日も繰り返してくれた。こだまが目を開けると、女が隣に横になっていた。体を起こし、女を見おろすと、女のふくよかな胸が上下していた。女は裸だった。児玉の問い掛けに言葉を返すことはなかった。言葉を知らないようだ。

 

体力を回復した児玉は、彼女の手を無理やり引いて森を出た。森を出てからしばらくすると、彼女は児玉の手を振りほどいた。振り返ると、この前のらくだがそばに立って、悲しそうに児玉を見ていた。らくだの目が潤んでいた。砂に埋もれていたときに会ったらくだの目と同じだった。児玉は立ち尽くした。風が吹きアラビアの黄色い砂が舞い上がった。らくだの姿が砂でかき消されていく。風が止むとまた元の静かな砂漠になっていた。児玉は砂漠の中の森を探して歩き回った。しかし、らくだも女にも会うことはなかった。

 

 *

 

「児玉さん、児玉さん…… 」

 

児玉が目を開けると、飛行場も着いたときのままのように、待合室には乗降客があふれていた。今のは夢だったのだろうか。目を開けた児玉の前にスーツ姿の日本人が立っていた。

 

「済みません。遅れて。お疲れでしょ? アラビア支局の田中と申します」

 

出迎えの現地社員の田中だった。田中の運転で、飛行場からジープに乗り込み支局に向かった。田中にさっきの森の話をしてみた。女のことはあえて話さなかった。

 

「蜃気楼ってやつですね。何処まで行ってもたどりつかないというやつで、逃げ水はその簡単なやつです。砂漠でオアシスを見つけ、走れども走れどもたどりつかないって話です」

 

「蜃気楼か?」

 

「アラビアはそういうところです。実に不思議なところです。暑いとよく見るみたいですね。潜在意識で求めているものを見るのかもしれませんねえ」

 

田中は笑った。しばらく走っていると、車のエンジンが異音を出し始めた。そして、車がついに止まった。

 

「まいったなあ。こんなところでトラブルかあ」

 

車が止まったところは森の前だった。砂漠の中の森。

 

「田中くん、あれ、見えるだろ」

 

「はあ? 何か見えます?」

 

「森だよ」

 

 田中はキョロキョロしながら首をかしげた。

 

「あのお、何か見えますか? とにかく、ぼく、降りてエンジンを見てきます」

 

田中は車から降りると、前に回りボンネットを開けて修理を始めた。児玉は車から降りて森のほうへ歩き出した。

 

「これは蜃気楼か? 」

 

 児玉が近づくと女が木の影から出てきた。とても綺麗な白い肌だった。児玉は差し出された女の手をとった。暖かな感触が伝わってきた。児玉は女を抱きしめた。

 

「児玉さーん、どこへ行かれたのですかあ」

 

 二〇メートルと離れていないのに田中には見えないようだった。それならそれでいいと児玉は思った。これから先も蜃気楼を求めて歩くなら、ここへ留まってみるのも悪くはない。児玉は女と森の中へ入って行った。

 

 

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