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オルタモントの悲劇

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1969年という年

1969年はロックの世界において、2つの重要な出来事があった年として我々に記憶されている。
8月の15日から17日までの3日間、ニューヨーク州べセルのヤスガー農場で行われた「ウッドストック・ミュージック・アンド・アーツ・フェア」。そして、もう一つが12月6日にカリフォルニア州サンフランシスコ郊外リヴァモアのオルタモント・スピードウェイで行われたローリング・ストーンをメインとするフリー・コンサート。
この2つのフェスティバルはまさに明と暗。そして、60年代最後の年に行われたこのオルタモントのコンサートは、ウッドストックの成功による「愛と平和」をイメージさせたヒッピー文化とロックの理想主義的なものを現実に引き戻し、ロックの幻想の終焉をまさに物語っているといっていいのではないだろうか。

オルタモントに決定するまで

69年11月7日からスタートしたストーンズの全米ツアーで、ミック・ジャガーは最後の公演をフリー・コンサートで締めくくろうと考えていた。ウッドストックが翌年に映画として公開されると知ったミックは、それより先に自分たちの映画を公開しようと考え、全米ツアーをフィルムに収め、フリー・コンサートをその映画のクライマックスとして位置付けていた。
7月にロンドンのハイド・パークでブライアン・ジョーンズの追悼コンサートを成功させていた彼らはこのフリー・コンサートも成功させる自信を持っていた。
ミックは28日のニューヨークでの記者会見でサンフランシスコでのフリー・コンサートの計画を発表。ただ、この段階ではまだ会場は正式に決定していなかった。
初めはゴールデン・ゲート・パークで8万人規模のフェスティバルを考えていたが、市当局が8万人を大幅に越えることになると予想し、ゴールデン・ゲート・パークの使用に許可を出さなかった。
そこで、次にサンフランシスコの北にあるシアーズ・ポイント・レースウェイが候補地として挙がり、ステージの設営も終わり準備も整ったかと思われた。しかし、会場側が10万ドルの使用料か、翌年公開予定の映画の配給権を要求してきたため、ストーンズ側はこの要求を受け入れる事ができず、会場捜しはふりだしに戻された。
最終的にオルタモント・スピードウェイに決定したのはコンサートの数日前。そのため、設営時間が少なく、警察も警備に対応できないなど、明らかに準備不足の感は否めなかった。
それでもストーンズ側は映画のハイライトとなるはずのこのコンサートを開催するために、警備にヘルス・エンジェルスを雇うことでなんとか開催にこぎつけた。

不穏な雰囲気の中での開催

会場作りは前夜に氷点下の中、数百人がかりで行われた。その時すでに会場に向かう若者たちが多数おり、会場への道は大渋滞。最終的に集まった若者は30万とも50万とも言われている。
フェスティバルはサンタナがトップバッターとしてステージに。続いてジェファーソン・エアプレインが演奏を始めるが、この段階ですでに警備にあたっているヘルス・エンジェルスは観客に暴力を振るうなど不穏な空気が漂い始めていた。暴力を振るうヘルス・エンジェルスを見かねたジェファーソン・エアプレインのヴォーカルのマーティ・ベイリンがエンジェルスのメンバーに突っかかり殴られるというハプニングにステージは一時中断。もはやコンサートはいつ中止になってもおかしくない状況になっていた。
それでもなんとかコンサートは進められ、ステージはフライング・ブリトー・ブラザーズ、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングが登場。当初はグレイトフル・デッドも参加が予定されていたが残念ながら不参加となっていた。
ヘリコプターで会場入りしたストーンズだが、会場に降りると観客の一人からミックが殴られてしまう。
こんなところからも、この日のフェスティバルがとてもピースフルな状況ではなかった事が伺える。

ストーンズの登場、そして悲劇は起こる


すでに日はすっかり暮れ、会場は闇に包まれてた。ストーンズの登場を心待ちにするファン達。
そして、いよいよストーンズがステージへと登場した。1曲目はツアー中のオープニングと同様に「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」だ。
以下は当日のストーンズのセットリスト
Jumping Jack Flash
Carol
Sympathy For The Devil
The Sun Is Shining
Stray Cat Blues
Love In Vain
Under My Thumb
Brown Sugar
Midnight Rambler
Live With Me
Gimme Shelter
Little Queenie
(I Can't Get No) Satisfaction
Honky Tonk Women
Street Fighting Man
最初の中断は3曲目の「シンパシー・フォー・ザ・デヴィル」の時。会場で殴り合いが始まりコンサートどころではないため、ミックがキースに演奏の中断を命令する。
観客にミックが冷静になるよう話しかけ、静まったところで、「この曲をやると何かか起こるんだ」とミックが言いながら、演奏を再び始めるストーンズ。
何とか曲を最後まで演奏するも再びケンカが始まり、ミックが「誰が何のタメにケンカをするんだ」と言い、キースが誰かを指さして、「ヤツがやめない限り、俺たちはプレイしない」とかなり怒っている。
観客の中にはストーンズへ不満を言う者もいる。
動揺を見せながらも、ステージをなんとかこなしていくメンバー。
そして、「アンダー・マイ・サム」が始まった。曲も終わりに近づいた時、またしても混乱が起きる。
観客の一人メレディス・ハンターという黒人がステージに銃を向ける。そのメレディスにエンジェルスのメンバーがナイフで背中を刺し、袋叩きにする。
会場はミックが冷静になるようになだめ、キースが怒りをぶちまける。この時点でミックもキースも殺人が行われていた事はわからなかったようだ。
結局なんとか最後まで演奏を終えることができたメンバーは、足早にヘリに乗り込み、会場を後にする。

映画「ギミー・シェルター」

オルタモントでのフリー・コンサートを含めた全米ツアーは映画「ギミー・シェルター」として翌年公開。ミックの考えていた通り、「ウッドストック」の映画よりも早く公開にこぎつけた。
映画はニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでのコンサートやツアー中のメンバー、を捕らえた映像を前半に、オルタモントでの映像を後半に配し、その映像をロンドンの編集室で見ているミック、チャーリーがツアーの映像の間に挟みこまれているという形がとられている。
映画はミックがメレディスがエンジェルスに刺されるシーンを見つけ、編集室を去るシーンで締め括られている。

オルタモントの悲劇のその後...

準備不足が明らかであったにもかかわらず、強行に開催し、中止するべき混乱が起きていたがステージを続行したこのコンサートは最終的には事故死を含め4人の死者を出した。
現在では到底考えられないが、69年という空気の中ではそれは別段おかしなことではなかったのだろう。
殺されたメレディス・ハンターは銃を取り出したということで、正当防衛が成立するとみなされ犯人は無罪となっている。
この事件で60年代に高まっていった理想は見事に打ち砕かれ、70年代という新たな時代へとロックは突入していかなくてはならなかった。
ストーンズもまた、60年代の幻想を捨て去り、エンターテインメント性を重視したスタジアム級ロックを確立していった。


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