「飲めや歌えや雑文祭」参加作品「冬がはじまるよ」

 その日は、大学の学期末のテストにはまだわずかな間があり、僕は家でファミコンかなんかをして、晩秋の長い夜を過ごしていたような気がする。

 ピンポーン、という呼び鈴の音。インターホンをとると「恵美ですけど、今、ヒマ?」

という部活の先輩の声。携帯なんて無い時代のことだったから、そんなふうに突然知り合いが訊ねてくることなんて、珍しいことじゃない。

 今開けますから、と返事をして、とりあえず2部屋にわたって散らかりまくっている部屋の荷物を1部屋にまとめて放り込み、あわてて玄関のドアを開けた。

 「ひとりなんですか?」と訊ねると、「うん」と頷く先輩。僕は、てっきり他の部員たちとのボーリングかカラオケの誘い、もしくはウチで呑み会なのかな、と思っていた。

「上がっていい?」と聞かれ、「はい、いいですよ」と答えたら、先輩は「これ、お土産」と缶ビールがゴロゴロと下に敷き詰められ、申し訳程度にミックスナッツやポテトチップスがその上に乗っかったビニール袋を僕に預け、ずかずかと家の中に入ってきた。

まだ出したばっかりのコタツに足を挿しいれ、「一緒に呑もうよ」と言って、答えを待たずに缶ビールのプルトップを開ける。僕もあわててそれに習って、ふたりで乾杯。

「何に乾杯しましょうか?」「じゃあ、ふたりの未来に」なんて。

その日の恵美先輩は、お酒の力もあっていつもより饒舌で、最近の部活の状況や、仲の悪い同級生のことなどを面白おかしく話してくれた。
だいたい、2人っきりになるのなんて、初めてなのに。

 しばらく2人で取りとめのない話をしながら、呑み続ける。転がるビールの缶。
ほんのりと紅く染まった、先輩の横顔。
「恵美先輩、今日はどうしたんですか?」と訊こうとした、その一瞬の沈黙に、先輩の眼から、大粒の涙がポロリと落ちた。
ポロポロ、ポロポロ、次から次へと。
大人の女性が泣いている姿なんてみたことなかったから、僕は、ただあわてふためくばかり。自分が何かしたんだろうかという軽い自責の念。でも、言葉が出ない。

 先輩の震える声。「振られちゃったの。大好きな人だったのに。それで、ひとりでずーっと考えてたんだけど、全然、ぜんぜん、時間が過ぎていかないの。テレビを観てもまったく意味が理解できないし、お酒を飲んでも酔っ払えない。本を読んでも、読み方がわからなくなったみたい。1回時計をみて、いろいろ自分でやったつもりで、だいぶ時間が経っただろうって、また時計をみても5分も進んでないんだよ。ほんと、時間が止まっちゃったみたいなの。
なんだか恥ずかしくって同級生にも相談できなくて、それで、ここに来たの。
ごめんね、泣いちゃって。
そんなつもりじゃなかったのに…」

僕は、当時は20歳そこそこで、女の子の涙なんてみたことなかったから、何かを言おうとして、一生懸命考えた。でも、頭のなかで100人のパネラーが「朝まで生テレビ」をやっているかのように、何もいい考えは浮かばず。ただ、「まだ、チャンスはあるんじゃないですか?」などと、こういう場合に言わないほうがいい言葉マニュアルの巻頭カラーを飾りそうな言葉を紡ぐばかり。ああ、「僕が先輩のドラえもんになってあげます!」(byドラマ『Love Story』)とか、こういうときに言えていたなら。

 それから先輩は、恋人の思い出話をオールナイトで。僕は、深夜放送を聴きながら寝てしまう中学生のように、いつのまにか記憶をうしなっていた。

朝(正確には昼だったか)、電話の音で眼が覚め、受話器をとろうとするけれども受話器が無い。ガンガンする頭を持ち上げると、部屋のレイアウトが変わっていた。
電話の向こうで、恵美先輩がウフフと笑う。
「ごめんね、あんまり散らかってたし、なんだか眼がさえちゃったから、片付けちゃったよ。Hな本とかは見つけなかったから、安心して。どうもありがとう」

 あれから、もう10年になる。
ある秋の日、うちに恵美先輩からの結婚のお知らせの葉書が届いた。
ウエディングドレスを着て、にっこりと笑う、美しい大人の女性。

僕は「このダンナは、先輩のあんな涙を見たことがあるのかな、とちょっとだけ思った。

 冬のはじまりのビールは、少しだけ甘くてほろ苦い、ような気がする。

    


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