第127夜 即リセットの美学?「ファイアーエムブレム〜暗黒竜と光の剣」
この「ファイアーエムブレム」が発売されたのは、1990年4月、ファミコンにとっては「末期」にあたります。スーパーファミコンの発売が同じ1990年の11月ですから、その時代というのは、みんな「来るべき新世代ゲーム機」にばかり目がいっていて、ファミコンのゲームは、いかにも「もう時代遅れなんじゃないの?」という雰囲気があったような記憶があります。
そんな中で登場したのが、この「ファイアーエムブレム」。このゲーム、発売の際には「期待のゲーム」としてけっこう話題になったのですが、実際にゲーム画面を見ての僕の正直な感想は、「うーん、このショボイ絵のゲーム、本当に面白いのかな…」というものでした。ほとんど単色で描かれたキャラクターたちは、けっこうカッコよく剣をふるったりするものの、フィールドが「大戦略」チックだったこともあって「なんか地味だし、難しそうなゲームだなあ」という印象でした。
ストーリーは、ドルーア帝国によって滅ぼされたアリティア王国の王子マルスが、さらわれた姉エリスを取り戻し、ドルーア帝国を打倒するために立ち上がる、というものです。
ゲームは、いわゆる「面クリア方式の大戦略型」で、その面ごとに敵を全滅させたり、特定の場所を占拠したりという目的を達成すると、次の面に進むことができます。
プレイヤーの「マルス軍」は、最初は人数も少ないのですが、次第に仲間も集まってきて、そして、それらの仲間はそれぞれ「命」を持ったキャラクターとして存在しています。
それまでの「シミュレーションゲーム」では、戦車や飛行機などの「ユニット」は、「やられたら、また新しく生産するもの」であって、「大戦略」では、経験値を積むとユニットがパワーアップするという設定もありましたが、それでも、「名前のない駒」のような存在だったのです。
この「ファイアーエムブレム」の最大の特徴は、その「駒」に名前や性格をつけ、そして「一度死んだら絶対に蘇らない」というシビアすぎるゲーム設定を導入したことでした。
それまでのRPGでは、キャラクターが死んでしまっても何らかの方法で蘇るのが当たり前だったので、このシステムにはものすごく困惑したものです。
僕も最初のころは、味方が少しずつ死んでいても次の面に行っていたのですが、途中で味方が少なくなってしまって行き詰まりました。「味方が死んでも、ストーリーのうち」と割り切りたいところではありますが、やっていると「ひとりでも死ぬと気分が悪い」という感じになってしまい、面クリア直前で仲間の弱いキャラが敵の遠隔攻撃を受けて即死し、泣く泣くリセット…」ということがたびたびみられ、何度カートリッジを壁に投げつけたくなったのか記憶にないくらいです。ほんと、「1ポイントのHP」のせいで、何度悔しい思いをしたことか。
でも、このシビアさこそが、「ファイアーエムブレム」の最大の魅力でもあり、その詰め将棋のような魅力と次第に強くなっていく「マルス軍」に、いつのまにやら熱中していったものです。それぞれのキャラクターへの「思い入れ」もどんどん強くなっていきましたし。一度「シャイニング・フォース」(セガ)をやってしまうと、「やっぱり生き返ったほうがラクだなあ」と思うんですけど。
このシリーズをやっていると、人間って、意外と苦労するのが好きなのかもしれないなあ、とか考えたりもするのです。キーッ!とか言って悶えながら。
それにしても、このシリーズは、いつのまにかこんなにたくさん出ていたんですね。
途中の作品は、もうどんなのだったか思い出せない…