「お客様のなかに、お医者様はいらっしゃいますか?」


「機長からアナウンス・第2便」(内田幹樹著・新潮文庫)より。

【飛行中に急病人というのは、けっこう発生するものだ。ある統計によれば、国内線では1000件あたり約1件、国際線だと5件前後になる。そういうときはアナウンスをして、医療関係の方に協力をお願いして、助けていただいている。
 以外なようだが、A社の便には医療関係者が平均89パーセントの確率で搭乗しているというデータがある。
 以前JALだったか、やはり飛行中に急病人が発生した。たまたまその便には医療関係者が誰も乗っていなかった。そこで、そばを飛んでいた同社の便に連絡し、乗客として乗り合わせていたお医者さんと無線でやりとりして、無事に収まったということがあった。言ってみれば遠隔操作の治療なのだが、機内に積んである医療キットも、医師の指示さえあれば使用できるのだ。
 急病人発生で大変なのは、たとえばシベリア上空を飛んでいる場合などだ。病人の具合によっては、緊急に着陸しなければならない。しかし、たしかに飛行場はあるけれど、十分な医療設備や専門医がいるのだろうか、あそこに降りて手当てを受けられるのかと考えてしまうのだ。
 技術的な面からは、管制官とは英語で交信できるのか。滑走路の強度は大丈夫なのかなど、基本的なこともわからないまま飛行場に降りること自体、問題になる。
 そういうときには、日本あるいはヨーロッパまで行ってしまったほうが、時間はかかるが適切なケアができると思えるのだ。あの辺を飛んでいるパイロットは、皆そう考えていると思う。それに、現在では米国のMedAirシステムが利用できるようになったので、世界中どこを飛んでいても、アリゾナ州フェニックスの医療センター緊急処置室に連絡すれば、24時間医師のアドバイスが受けられるし、医療設備がある空港を教えてくれる。
 日本国内の場合は、最寄りの飛行場にすぐ着陸許可をとればよいので問題はない。ただ夜の9時半を過ぎて開いている飛行場は少ないので、降りられる飛行場を探さなければならないだろう。】

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 TVドラマなどでは、よく、この「お客様の中にお医者さまはいらっしゃいませんか?」という場面がありますよね。そして、医師免許を持って以来、乗り物の中では、淡い期待と不安を僕は持ち続けてきたのです。それがキッカケで、スチュワーデスさんと恋に落ちたりしたらどうしよう!とか。まあ、列車の場合、日本国内なら医者を探すよりも最寄の駅に緊急停車したほうが手っ取り早いことが多いでしょうし、船に乗る機会というのもそんなにありませんから、現実的にそういう事態になりそうなのは、やっぱり飛行機の中、ということになりますよね。でも、飛行機に乗るたびに「お客様にお医者様は…」と身構えているわりには、本当にそういう状況になったこともないし、実体験を聞いたことがなかったのですが、この文章を読んで、なるほど、と思いました。【国内線では1000件あたり1件、国際線では1000件あたり5件】という数字は、実際に目にしてみると、意外に少ないのだな、という印象です。要するに、国内線なら1000回飛行機に乗って、ようやく1回遭遇するかどうかという事象ですから、そりゃあ、「そんな体験をしたことがない」人のほうが多いのが当たり前ですよね。往復に飛行機を使ったとしても、国内なら500回、海外でも100回どこかに飛行機で行かなければならないのですから。そもそも、「最初から体調の悪い人は、飛行機に乗らない」だろうし。

 それでも、医療関係者が90%近くは搭乗しているというのは、みんな意外と飛行機でいろんなところに行っている、ということなのでしょうか。あるいは、特定の人が飛行機を何度も利用しまくっているだけなのかもしれませんけど。そういえば、研究室の上の先生は、海外の学会に年間何度も出かけていて、マイルがすぐ貯まるって言っていたものなあ。ああいう偉い先生たちは、何度かそういう経験があるのかもしれません。

 しかし、実際にそういう現場に立たされるというのは、僕のような救急医療の経験に乏しい医者にとっては、やっぱり非常に不安なことではあるのです。「医者」という仕事の内容を考えれば考えるほど、「医者ひとりで、何ができるだろう?」と考えこんでしまうのですよね。検査もできず、レントゲンも撮れず、エコーやCTも使えず、手早く処置をしてくれる看護師さんもおらず、という状況だと、本当に「自分には何もできないのではないか?」という気がしてきます。もちろん、その場にいるのは、「とりあえず風邪薬」で済むような患者さんではないわけですし。最低限の医療器具はあるとしても、「ひとりでなんとかしなくてはならない」というのは非常に辛いです。ましてや、仕事で急いでいるほかの乗客もいるなかで、『緊急着陸の必要性』まで判断を迫られる場合もあるわけですから。「医者」と言ってみたところで、ひとりっきりで医療機器の助けもなしで何ができるか?と考えると、本当に無力なものなのですよね。

 結局は、「お客様の中にお医者さまは…」という状況にならないのが、お互いにとっては一番良いことではあるのです。「それをキッカケにスッチーと出会えるかも!」とか「エコノミーからビジネスにアップグレードしてくれるらしい」なんて言っても、責任とリスクのほうがよっぽど高そうだものなあ……