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言葉世界

Chris' words


エッセイ集 「離家出走《完全本》」より〔打掃〕



8月に発表されたエッセイ「離家出走《完全本》」より。
この〔打掃〕の中では自宅の庭のことが出てきます。今でもこの家に住んでいるかどうかはわからないけど、現在の自宅には確かに裏庭にりんごの木がある。
クリスは庭掃除をする度に、心の整理もしているようです。年末の大掃除に関わらず、時々は思いっきり部屋を掃除して、思いっきり気分をすっきりさせるのもいいかも。私はイライラすると掃除をして、ストレス発散してます。


〔打掃〕

五月初め、弁護士の事務所で鍵を受け取った時はすでに四時すぎ。この季節ではどっちにしろまだそんなに早く日は暮れないので、築60年以上のこの家を見に行こうと決めた。

前回ここに来た時は冬で、太陽はすでに沈み、家の裏に有る林はすっかり葉が落ちて、灰色になっていた。色を探すとするなら、背の高い松の木と樫の木ぐらいだ。時間はかなり遅く、地面の積もった雪はとても深く、その上、湿った雪が降っていた。全くもって外に出ようとは思わないような気候だ。でも、こういうのも悪くない。熱い期待は往々にして驚きを与えてくれるものだ。

この日、一歩足を踏み入れると、すぐに客間のガラス窓から見える木々に目を奪われた。
家は少し斜面になってるところに建てられているので、地下から裏庭に歩いて行かれる。一階からまっすぐ見える景色は、正に庭一面の緑の世界だ。

二階に駆け上がって、メインベッドルームのドアを開けると、思わず叫んでしまった。
窓の外の景観は、実際人を驚かせるものだった。
元々、家の後ろ約4〜500メートルのところに一本のとても大きいりんごの木があった。毎年春になると木には白い花が満開になり、窓はまるで一幅の油絵の額のようで、部屋がとてもロマンチックになるんだ。

5月が過ぎ、花がだんだん枯れて、辺りに落ちる時、これもまたすごく美しい。
6月中下旬になると、たくさんの小さなりんごが木に現れる。
僕はこの小りんごを食べたことはないんだ。というのもcrab appleはとても酸っぱいと聞いていたから。
でも、僕の小さなお客さんはそうは思っていないみたいだね。

ここに引っ越してきてから、夕方、三階で歌を書いている時、僕はよくBlue jays(あおかけす)の一群が木のてっぺんでコンサートを開いているのを見るんだ。彼らの鳴き声はとても音痴で、他の鳥たちの歌を真似するのが好きな時もあるけど、声はかなりひどい。例えば僕がちょうど録音をしていて、全部の窓を閉めていてもまだ彼らの声は聞こえてくるぐらいだ。
しかし、Blue jaysたちが南に飛んで行ってしまうと、僕はいつも彼らの美しい声を懐かしく思うんだ。

秋、木々の葉は全て落ちる。小りんごは落ちるともっと辺りがめちゃくちゃになるんだ。一番嫌なのはアライグマ一家3匹が、冬眠の前にいつもここに来て、お腹いっぱい食事をしていくことだ。夜、部屋から外を見ると、偶然僕の方を見てる顔を見つけて驚いてしまった。本当に魂が吹き飛ぶほどびっくりした。でも、わかってる。彼も僕の顔を見て、同じように死ぬほど驚いただろう。朝、ポーチの一角が彼らのトイレにされてしまってるのを見ることもある。本当にむかつく。
でも、この一年彼らを見かけなくなった。僕はちょっと彼らのことが心配だ。

Blue jaysが去ったあと、アライグマが去り、あとに残ったのは一面の落ち葉と、フンと、腐り始めた小りんごだ。本来は、青々とした木、美しい白い花、にぎやかなパーティ、豊富な晩餐だけど、今はあるのは残骸だけ。どこから片付けていいのかわからない。すでに早いうちに全てきれいにしたと思っていたのに、りんごの実が半分も落ちないうちに、腹が立ってきて、手を付けるにはすでに遅すぎた。結果、仕事が増えて、不平不満でいっぱいになった。

心が乱れれば、心理学の先生に見てもらう人もいる。ソファーに横たわって、見知らぬ人に心の中のことを吐露するんだ。
僕は落ち葉とりんごが庭いっぱいに散らばったみたいに心乱れた時は、バケツ一杯の水、一本のタオル、くわ、スコップ、軍手を手にして、裏庭を掃除するんだ。

実は、りんごの木は僕の先生だ。
地面に落ちたりんごが僕にくれたのは、どうやって庭を片付けるかという難題だけでなく、どうやって心を落ち着かせるかというレッスンもだ。

だんだんと、僕は学んだ。静かに、穏やかに、リラックスして、慌てず、騒がず、どこから始めるか気にせずいれば、いつも最後には残骸を片付けることができるということを。背中や腰が痛くならないよう、僕は6〜7個の一番大きな黒いゴミ袋を用意し、何回かに分けて掃除をする。
心の煩悩も時には、何袋かに、何回かに、何段かに、何日かに分けて処理しなくてはいけない時がある。時には何週間かにすら分けて処理し、慌てないことだ。

時は常に変化し、万物の栄枯も循環している。この世には永遠に春の花園はない。だから僕らは掃除をしなくてはいけない。
りんごの木から始まり、花壇、草、石段、ポーチ.....まで、ひとつづつ、僕は地面全体を掃除する。まるで時間も労力の無駄もないかのように。
花園も整理しなくてはいけない。心の中の花園と同じように。

毎回掃除をする時、静かに、僕はある心の悩みを解消してるのかもしれない。あるいはある問題を解決してるかもしれない。あるいはある答えを見つけてるのかもしれない。あるいはある事実を受け入れてるのかもしれない。あるいはある人を許してるのかもしれない。

庭を掃除すると同時に、僕は自分の心も掃除する。