檀ちゃん退団後初の作品はちょっと毛色の変わったものでした。
梅田芸術劇場と本ホールの2回だけの公演でしたが、
この作品は完成された作品としてではなく、
新しい表現方法の模索を主眼とした作品であるような印象を受けました。
公演は二部構成で、第一部は半能「石橋」で30分の上演となります。
半能と言うのは前後2場ある作品の前半をほぼ省略し、
後半を主体として演じる能の形式だそうです。
「石橋」は「しゃっきょう」と読んでしばしば演じられる演目のようで、
山奥の深い渓谷に架けられた幅一尺ほどの石橋を渡るという話らしいのですが、
私には良く分かりませんでした。
能と言うと能面を付けて演じるものとばかり思っていましたが、
この公演では4人の出演者全員が能面は付けていませんでした。
何か目的があってそうした演出になったのだと思いますが、
恐らくプログラムには詳しい説明が載っていたのではないかと思います。
因みにプログラムは2千円と高めだったので買い控えていたのですが、
売れ行きは好調で開演前に売り切れてしまったようです。
後日送付することで受付も行なっていましたが、
そこまでして入手しようとは思いませんでした。
またこの演目で異様に感じたのは、
第二部で用いる舞台装置をそのまま利用していたことです。
能を演じるうえでは大きな相違は無かったかもしれませんが、
客席から観ていると異様に高い舞台上の天井が気になりました。
天井には多数の照明が吊るされていますが、
能舞台ではこのようなものが観客の目に入ることは無いはずです。
能を演じてはいるがそこにあるのは明らかに能舞台ではなく、
何かしら気の抜けた空間のように思えました。
第二部はいよいよ泉鏡花原作の「夜叉ケ池」で檀ちゃん登場です。
幕開きは男声の独唱で始まりましたが、
ストーリー展開とは無縁の歌のように思えたし、
これがどのような意味を持っていたのか分かりません。
配役表では後見と載っていましたが、
その後表立って舞台に上がることは無いようなので、
顔見せも兼ねて設定されたのかもしれません。
歌が終わると舞台は村の鐘楼守の家に移り、
檀ちゃん演ずる百合(村娘、とは言っても今は人妻)と夫の萩原晃、
そして萩原の親友で大学教授の山澤學園の3人だけの芝居となります。
百合は長い髪を一つに束ねた若奥様と言う感じで、
山奥の田舎にしては少し優雅に思える着物を着ています。
決して派手な柄ではありませんが、
紅一点なのであまりみすぼらしい着物には出来なかったのかもしれませんね。
檀ちゃんの化粧は宝塚時代とはかなり異なっており、
より自然に近いように感じられました。
宝塚の場合には男役からして独特の化粧をしているので、
娘役もある程度それに合わせる必要があるのでしょう。
逆にこの舞台で宝塚風の化粧をしたならば、
男性2人とのバランスは全く崩れてしまいます。
でも綺麗な人はどんな化粧をしてもやっぱり綺麗なんだな、とつくづく感じ入りました。
舞台は以前の「極楽町一丁目」同様ストレートプレイですが、
長時間に亘って3人だけで芝居をしているので、
個人の技量が非常に重要視される場面かと思います。
当然台詞の量も膨大なものになっていたはずですが、
檀ちゃんは宝塚時代からも芝居に定評のある人なので、
男性2人に引けを取らず堂々と演じられていました。
ただこの場面で気になったのは、
恐らく当時の福井地方の方言になるのだと思いますが、
言葉がちょっと分かりにくい箇所もありました。
あるいは原作に忠実に演じていたのかもしれませんが、
完全に方言だけでしゃべっていたとも思えませんし、
あえて方言にこだわる必要は無かったのではないかと思いました。
次の場面は一転して能による表現で、
夜叉ケ池の主である白雪姫とその眷属たちの会合となります。
演じているのは能楽師と狂言師ですが、この場面では動きらしいものは殆ど無く、
台詞によって物語の進行を確認することになります。
しかし能の台詞と言うものは慣れないとなかなか聞き取れないもので、
意味が分からない箇所が何箇所もありました。
ほぼ2時間にも及ぶこの演目は大きく3つの場から成り立っていましたが、
その中でも最も長時間の場だったと思います。
能の鑑賞に慣れた人でないとちょっと退屈する場ではなかったかと思いました。
なお終わりの方で檀ちゃん演ずる百合が登場(幻想として?)し、
1曲披露したのですが物語との関連は良く分かりませんでした。
でも無難に歌い終えたので安心しました。
最後の場は日照りで困っている村人が百合を生贄にすると言う設定で、
再び普通のストレートプレイとなります。
鐘楼守の場の3人に加えて関西の落語家等が登場しますが、
役柄も村長を初めとする村の有力者の他に、悪徳代議士や博徒まで登場してきます。
こんな田舎の村に代議士が来ても何の得にもならない気がしますが、
これも原作が書かれた当時の時代背景が反映されていると見ることが出来ます。
博徒は代議士か村長の下働きと言ったところでしょうか。
原作では百合を全裸にして荒縄で黒牛の背中に縛り付けることになっていますが、
勿論舞台ではそんなことは出来ません。
一応檀ちゃんは縄で縛られた格好になりますが、
縛ると言うよりは縄を掛けただけと言う程度のもので、
夫である萩原が縄を切って助け出します。
それでも百合は村人たちの圧迫に耐えかねて自殺してしまい、
怒った萩原は釣鐘を落として撞くのを止めてしまいます。
話が前後しますがこの村には日に3度鐘を撞かないと夜叉ケ池が氾濫すると言う言い伝えがあり、
よそ者である萩原がその伝説を信じて鐘撞きを実行しているのに対し、
村人は完全に無視しているのが実情でした。
細かいことを言えば鐘を撞くべき時刻に撞かなかった訳ではありませんが、
鐘を切り落とすと言う行為が鐘撞きを放棄したと見做されたのでしょう、
夜叉ケ池の主が怒って大洪水となります。
洪水の場面は天井から吊るされていた鐘を落とし、
照明の点滅と低音を響かせた音響効果で表現しています。
何やらスーパー歌舞伎を思わせるものがありましたが、
従来の歌舞伎でもこのような表現方法はあったと思います。
能の世界に関しては全く知らないのですが、
この舞台では良く表現されていたと思います。
最後は洪水によって村人たちは消え去り、彼らに代わって夜叉ケ池の眷属たちが登場します。
百合と萩原は地面に落ちた鐘の脇で息絶え、學園の朗読で幕切れとなるのですが、
もうちょっと続くのではないかと思っているうちに終わってしまいました。
この終わり方に関してはもう少し工夫が欲しかったと思いましたが、
これも宝塚の舞台を見慣れてしまった影響かも知れません。
その他に気になったこととしては、
全体の調和が今一つ取れていなかったように感じられました。
萩原役の野村萬斎氏も技術自体はしっかりしているので、
最初の場のように3人だけで芝居をしている時にはそれ程違和感を感じることはありませんでした。
しかし最後の場のように大勢の役者と共に演じる場面においては、
他の出演者との演技モード(適切な表現なのかどうかは分かりませんが)が違っているように感じられました。
確かに台詞の言い回しもしっかりしているし、立ち振舞いも申し分ないのですが、
一人だけ浮いてしまっているように感じられたのです。
狂言の場合には主役が目立てば良いのかもしれませんが、
この場面では他の出演者に合わせたモードが必要ではなかったかと思いました。
宝塚の出身者でも外部の舞台に立った場合、
その表現方法に違いがあることを感じられるようです。
檀ちゃんの場合にも最初に芸術座に出演した時には戸惑いもあったようですが、
今回の舞台ではそうした経験が生かされていたのではないかと思いました。
どちらが良いと言うのではなく、演出家は全体の調和を考えて指導しているはずですから、
その方針に沿って演じなければおかしな舞台になってしまいます。
この作品では構成・総演出が梅若六郎(能楽師)、演出が中村一徳(宝塚歌劇団)となっていますが、
この説明によれば全体の方針は梅若氏が行なっていたものと思われます。
梅若氏と中村氏がどの程度話し合って演出したのかは知り得ませんが、
必ずしも十分に融合していたとは思えませんでした。
しかし新しい試みと言うものには計画段階では予期出来ない事柄も多いはずですから、
最初から完璧な仕上がりを期待するのは酷であるかと思います。
冒頭でも述べているようにこの公演は試験的な意味合いをも持った作品であることを理解し、
今後の公演での向上に期待するのが良いのではないかと思います。
この作品のタイトルとなっている「夜叉ケ池」は福井県の南部、
岐阜県との県境に近い所に実在する池で、
原作でも参考にしているはずの「夜叉ケ池」伝説と言うものが伝わっています。
また「夜叉ケ池」の「ケ」の字は『が』と読ませていますが、
文法的には小さな「ヶ」の字を用いるのが正しい表現のようです。
これらに関しては近いうちに別項「お散歩気球」に載せる予定です。