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 長崎しぐれ坂/ソウル・オブ・シバ(5月28日宝塚大劇場)

 この作品は檀ちゃんの退団公演となりますが、 『退団』公演としては不満の残る作品なので『三辛』評価としました。 男役二人の絡みが主体となるのは已むを得ませんが、 まるで檀ちゃんが二人から退けられてしまったような印象を受け、 これでは『退檀』公演では無いかと言いたくなってくる!!
 
 この作品は原作自体も舞台脚本とのことですが、 原作の公演時間はどの程度になるのでしょうか。 ミュージカル仕立てにすると歌や踊りの分だけ余計に時間を費やすことになるので、 どうしてもストレートプレイに比べて公演時間が長くなってしまいます。 言い方を変えれば公演時間が同じであれば、 ストーリー展開はどうしても荒いものになってしまう訳です。 この作品では更に多くの踊りの場面が入っていますから、 思い切って1本物にしてしまった方が良かったのではないかと思います。
 冒頭の芸者姿での踊りは、退団公演としてはどうしても欲しい場面ですね。 芸者姿としてはこの黒い紋付の着物(何と呼ぶのでしょうか)が一番色気がありますが、 その後芝居に入ってからは着ることが無いので貴重な場面かと思います。 プログラムの写真は縦縞の町人風の着物になっていましたが、 松本さん同様黒い着物にして欲しかったですね。 今回は宝塚のトップ娘役としては異例とも思える大人の役となりましたが、 この場面では若い娘役では出せない大人の色気が出ていたように感じられました。
 本題に入ってからの檀ちゃん演ずるおしまは28歳と言う設定ですが、 豪商の囲われ者と言う設定にもなっているのですから、 もっと若作りの方が良かったのではないかと思います。 芸者とは言ってもあくまでも元芸者であり、 現在では生活には不自由していないはずですから、 和泉屋の気を引き止めておくためにも若さは必要なはずです。
 宝塚娘役としては異例の役柄と述べましたが、 月組時代の檀ちゃんだったら非常な困難を伴ったことと思われます。 しかし今回の舞台を観ていると単に年数を経ただけでなく、 やはり外部出演で得られた経験が生かされているように感じました。 どう見ても退団公演に相応しい役柄とは思えませんが、 檀ちゃんの実力があればこその役であると言うことも出来るでしょう。
 それにしても不満が残るのは、 トップ娘役の退団公演としては余りにも出番が少ないことですね。 まさか前作の「花舞う長安」の反動と言うことも無いでしょうが・・・ しかし最後の場面くらいは登場させて貰いたいものですね。 勿論生身の人間として登場させるのでは不自然になってしまいますが、 伊佐次の思い出として登場させるのであれば可能ですし、 むしろその方が芝居の幕切れとしても相応しいと思います。 現実的に考えれば当然捕手方も船で追ってきて二人共捕まっているはずですから、 非現実的な終わり方にしたいのであれば、 幻想の中におしまが現れて二人の乗った船はおしまに向かって進んで行く、 と言う脚本では如何なものでしょうか。 原作では年配者となっている伊佐次と卯之助の年令を下げ、 おしまと言う人物を新たに設定しているのですから、 幕切れも原作に忠実に従う必要はないと思います。
 
 轟さんは「芝居の雪組・日本物の雪組」時代の雪組で日本物の経験は豊富であり、 この舞台でも極自然に演じられていますね。 本来悪人であるはずの伊佐次ですが、 ある意味で爽やかな印象すら受けるのは流石だと思います。
 湖月さんは対照的に力みが強い印象を受けましたが、 伊佐次と卯之助の立場の違いが現れてかえって良かったかもしれません。 しかしおしまと話をする時にはその必要もありませんから、 もっとリラックスしていた方が良かったと思います。 足が悪いことの表現は大袈裟にならず、適切で良かったと思います。
 脚本として見た場合には卯之助の存在は微妙に疑問も残ります。 卯之助はいわゆる目明し(岡引)と言うことになりますが、 目明しと言うのは奉行所の下級役人である同心が私的に雇っていた者だそうで、 江戸の目明しが長崎まで来て別の同心の元で働く可能性は極めて少ないことでしょう。 目明し風情では私費で長崎まで行くことは出来ませんから、 江戸での同心の上役の推薦が得られたと言う設定なのでしょうか。
 伊佐次の子分四人衆は、チンピラ風になり過ぎて不自然に感じられました。 この脚本で意味不明なのがこの無宿者四人衆で、 何故唐人屋敷で匿っているのだろうと言う大きな疑問が残ります。 役人に追われている者を匿うと言うことは、 唐人屋敷にとってそれなりの利益が無ければ行われないはずです。 あるいは大量の小判を持込めば匿いもするでしょうが、 四人衆がそれほどの大金を持込んだとは思えないし、 商売人、あるいは職人としての特技も持っているようには見えません。 伊佐次の場合にも同じことが言えますが、 こちらは李花との関係から何らかの理由があったものと窺うことが出来ます。 原作でどのようになっているのかは知りませんが、 現在のままでは品を落とすだけの存在になってしまうような気がします。
 同心の館岡は一人堅物と言う感じで、 やはり力みが強いような印象を受けましたが、 新任の同心と言うことでこれはこれで良いでしょう。 しかし最後に伊佐次を追いかける時、 目明しの卯之助が同心の館岡に向かって指図をするのは不自然すぎます。
 
 冒頭の神田祭の場面では背景の御輿が動いていましたが、 単純な仕掛けながらも折角の大道具係の工夫ですから、 これからご覧になる方は是非注目して下さいませ。 でもこの日の夜の部公演では残念ながらオーバーランしてしまい、 少し経ってからあわてて定位置に戻していましたが・・・
 他に演出で気になったのは港で聞こえてくる汽笛ですね。 幕末と言うことなので蒸気船も建造はされていましたが、 まだまだ多くの船、特に清国からの船は帆船だったことと思いますし、 和泉屋の持ち船は当然帆船です。 汽笛は名前の如く汽(蒸気)で鳴る笛ですから、 あるいは蒸気船には装備されていたかもしれませんが、 ボイラが必要無い帆船には備わっていなかったはずです。 現在では港で汽笛が鳴っても当然のことでしょうけれど、 この時代では余程の大事件でも発生しない限り、 汽笛が聞こえてくるようなことは無かったものと思われます。
 プログラムの写真では卯之助の十手に赤房が付いていますが、 CSの映像を見ると実際の舞台では水色の房になっていたようですね (観劇時にはそこまで気が付かなかった)。 しかし赤房が付いた十手を持てるのは同心であり、 目明しの十手には水色でも房を付けることは出来なかったようです。 細かいことですがこういったことにちょっと気を配ると、 芝居もぐっと引き締まるのではないかと思います。 日本物では所作にうるさいと聞いていますが、 こうした小道具の類にも気を配って欲しいものです。 あるいは幕末なのでそれまでの習慣も変化しつつある、 と言う設定だったのでしょうか。
 
 ショーに関してはそれ程期待もしていなかったし、 特別に感想を書くほどのこともありません。 でもやっぱり檀ちゃんの出番が少ないのは気になりますし、 巨大スカートだけが見せ場のような感じで高い評価は下せませんね。 特に娘役としての華やかな場面が見られなかったのでは、 退団公演に相応しいとは思えません。
 私は芝居に重点をおいて観劇するタイプであり、 ショーに関してはデザート感覚で観ると言った感じなので、 ショーの出来栄えについてはそれ程気にしていませんでした。 でも殆どの場合ショーが後から上演されるので、 終演後の印象としてはショーの方が強い場合もありますね。 それだけに檀ちゃんの退団を意識した場面は是非とも挿入して欲しかったのですが。 作・演出の藤井氏はまだ経験が浅いので、 生徒や観客の心理面まで考慮しての構成を要求するのはちょっと無理なのでしょうか。

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