宙組公演は前回の「白昼の稲妻」は見逃してしまったので、
久し振りの観劇ということになる。
「白昼〜」は観ていないので何とも言えないが、
花總さんがその本領を発揮できる作品に巡り会ったのも、
「鳳凰伝」以来と言って良いのではないだろうか。
宝塚で上演される作品を分類すると、
先ずはオリジナル作品と少女漫画を原作とした1群がある。
そしてもう1群は、小説であれ演劇であれ一般を対象とした原作を元にした作品である。
前者の場合にはどうしても女性を対象とした構成になってしまうので、
男の目から観るともどかしい所が多い。
しかし後者の場合には多少宝塚的に演出を変えたとしても、
それほど違和感を感じない場合が多い。
そしてこの作品の場合にも、宝塚「くささ」はそれほど感じられなかった。
花總さんの場合、演技も歌も申し分ないのだが、
一つだけ気になったのは『存在感が大き過ぎる』と言うことである。
存在感と言うものは舞台の中央に立つ人にとって必要不可欠なものである。
しかし宝塚の場合には男役中心と言う特殊性があり、
娘役の方が目だってしまっては困ると言う事情がある。
また、存在感が大き過ぎて役を超えてしまっても都合が悪い。
演じている役よりも、演じている本人の方が強く出てしまってはまずいのである。
勿論花總さん自身はそんなことは意識していないし、
その役になりきって舞台に立っていることと思われる。
しかし本人の意識とは無関係に、存在感と言うものが出てしまっているような気がする。
つまりクリスティーヌが舞台に立っていると同時に、
それより大きな花總まりがそこに存在しているのである。
これは男役トップを経験し、退団後一般の舞台で活躍している方の例であるが、
やはりその存在感が大きい故に、役よりも本人が前面に出てしまっている方がいる。
数多くの舞台に立って色々な役を演じているが、
どの役でも本人の影の方が大きく見えてしまう気がするのだ。
意識して自分の存在感を押さえない限り、役が負けてしまうと言う感じなのである。
それでもその作品の主役を演じているので、
宝塚娘役の場合よりは存在感が負担となることは少ないのかもしれないが。
現在の宝塚歌劇団において、
花總まりの存在は男役・娘役の枠を超えて大きなものであると言えよう。
それ故に普通に演技をしていたのでは、その存在が災いとなる恐れが出てしまう。
自分の存在を押さえると言うことは、前面に押出すことよりも難しいことであると思う。
しかし現在の花總まりならば、それが出来るはずである。
花總まりという存在を舞台上から消し去り、クリスティーヌだけをそこに残す。
これが現在の花總さんの一番の課題であり、
今後の公演でも必要になってくるものと思われる。
和央さんは歌も演技も重みを増してトップとしての貫禄も増しつつある。
ただし今回は顔の半分だけとは言え仮面を付けていることもあり、
心情の変化には苦労しているように見受けられた。
体全体を使って表現しなければならない訳だが、哀愁感の表現にもっと工夫して欲しかった。
かなりの難役であるが、それだけに遣り甲斐はあるはずである。
樹里さんのキャリエールも難役かもしれない。
ファントムの父親としては設定が若過ぎるので、演技も軽くなってしまったのであろうか。
オペラ座を古くから知る支配人なのだから、
もっと年令を上げて演じた方が良かったと思う。
安蘭さんのフィリップ伯爵も、もっと年令を上げた方が良かったと思う。
オペラ座一のパトロンと言う設定なのだから、ちょっと若作り過ぎる印象を受けた。
あるいはクリスティーヌとの関係を意識してのことであろうか。
ショレの鈴鹿さんは適役であった。
やはりこうした演技に専科の存在は欠かせない。
特に鈴鹿さんの場合には背の低さが有効に生かされることが多い。
今の若手男役は長身揃いなので、今後このような役をどうするのか心配である。
余り背の低い人を最初から男役としても気の毒な気がするし、
かと言って学年が上がってから男役に転向することは不可能であろう。
多彩な舞台を実現する上で、宝塚のアキレス腱となりそうな気もする。
出雲さんは悪役歓迎と言った感じで、迫力があって良かった。
本人も楽しみながら演じていたことであろう。
その反面、今回も他の娘役には目ぼしい役が見当たらなかった。
唯一目を引くのはヴァレリウスくらいのものであり、
他は役名は付いていてもその他大勢と言う感じになってしまった。
男役の場合にも目ぼしい役は少なかったが、
これは他に原作がある作品を流用した場合に共通する問題であり、
著作権云々の問題で新たな役を設定することが難しいためであろう。
若手を育てると言う意味においても、
オリジナル作品とのバランスを取って上演して行く必要があろう。
この作品の原作である「オペラ座の怪人」、
そしてミュージカル版「ファントム」の何れも観ていないのであるが、
ファントムを取り巻く『従者』と言うのは宝塚のオリジナルなのだろうか。
何やら「エリザベート」の黒天使を思わせるものがあるが、
現実の人間であるファントムとの組合せが気になった。
どうしても納得できないのは、ファントムの顔を見たクリスティーヌが、
いとも簡単に逃げ出してしまったことである。
具体的な説明は無いが、ファントムが醜い顔であったことは想像できる。
しかし逃げ出すほどの恐怖心を募らせるような、狂気に満ちた顔、
あるいは凶暴さを秘めた顔であったとは思えない。
一般的に言って、人間が逃げ出すような状態に陥るのは、
己の生命に危険を感じた場合である。
もしもファントムの顔に殺意が現れていたり、
正常な判断が下せないような状態になっていたとしたら、
クリスティーヌが逃げ出してしまうのも理解出来る。
そしてその判断材料として最も大きな比重を占めるのは、
決して醜い容貌ではなく、その「目」ではないだろうか。
どんなに整った顔をしていても、その目に凶暴性が隠されているならば、
人間は本能的に恐怖心を抱くものである。
クリスティーヌはファントムの目を見て、
その人間性をある程度つかんでいたはずである。
当然その目には殺意や凶暴性がないことも、
狂気に満ちた目でないことも知っていたはずである。
仮に仮面の下に醜い顔があったとしても、
自らに危険が及ぶことがないことも知っていたはずである。
にもかかわらず簡単に逃げ出してしまうのは・・・どうにも理解し難いものがある。
男と女の違いだと言われてしまえばそれまでだが、
クリスティーヌも子供ではないのだから・・・
うーん、どうやら永遠の謎になりそうである。
これは他の作品でも言われていることであるが、
芝居の終了からフィナーレへの移行に関しては、もっと時間を取って欲しいものである。
それが悲劇であれ喜劇であれ、本編とフィナーレとは切り離して考えてもらいたいのだ。
宝塚のフィナーレは、エピローグではないのだから。
エトワールの彩乃かなみさんには、もっと長時間歌わせて欲しかった。
最近はどの組の作品を観ても、じっくりとエトワールに歌わせることがないようであるが、
これは是非とも改善して頂きたいものである。
歌える娘役を育てるためにも、娘役の意欲を引き出すためにも、
そして観客を楽しませるためにも。