ジャワの踊り子(4月21日名古屋市民会館)
初演が1952年、そして1982年に再演された作品であり、
今回は花組でも公演されることを考慮すると、人気のある作品なのかもしれない。
しかし作品自体は平凡な脚本であり、大きな山場と言うものも無く、
一本立て作品としてはショー的要素にも欠けるものであった。
1982年の作品はスカイステージで放送されていた物を観たが、
今回の公演でも脚本には手が加えられていないようであった。
恐らく菊田一夫氏の原作と言うことで、
脚本に手を入れることを控えたのではあるまいか。
手直しの余地が無いほど完成度の高い作品ならともかく、
この作品では公演時間に余裕もあるのだから、
絶対に新たな場面を追加挿入し、もっと密度の高い作品とすべきであった。
もしも菊田氏の遺言なりで手直しが出来ないのであるならば、
再演するに値しない作品であると言わざるを得ない。
初演の1952年と言えば、インドネシアが独立した直後であり、
入ってくる情報も限られた物であったろうし、
その情報も錯綜していたであろうことが予想される。
インドネシア自体も大きく変っているし、
独立当時の情報も初演当時よりは自由に入手できることと思われる。
潤色の植田氏は理事長職で忙しいのかもしれないが、
それならば他の作家に脚本を担当させてでも手直しすべきであったと考える。
脚本に関しては全く期待外れの作品であった。
地方公演の場合、設備も規模も異なる様々な会場で上演されるので、
大劇場公演とは違った演出が要求される。
今回の会場でも盆やセリは全く無かったが、
この作品は初演時から特殊設備は使わないように計画されていたのかもしれない。
それはそれで地方公演作品として向いているのかもしれないが、
大劇場での派手な演出に慣れてしまった観客にとっては、
やはり物足りなさを感じたのではあるまいか。
地方公演では出演者の数が少ないのも大劇場公演との大きな違いである。
この点も演出家は十分に考慮する必要があると思うのだが、
今回の公演では配慮が足りないように感じられた。
脚本自体は原作当時から変えられなかったとしても、
演出を工夫することによって多少はカバーできるはずである。
大劇場と同じ様な演出をしていたのでは、
どうしても人数が少ない分だけ貧弱な作品となってしまうのである。
個々の出演者について見ると、
先ずはトップお披露目公演となった彩輝直さんであるが、
特に力むことも無く、今までと同じ様に演じられていたのは良かったと思う。
この人の場合は声質に個性があると思うのだが、
今回は再演作品であるので、その特徴を生かすことは出来なかった。
もしその声の特性を生かせるような脚本が出来れば面白いと思うのだが、
その反面台詞を言った時の切れが悪い場合には、
非常に聞き取り難くなる欠点も合わせ持っている。
今後はこの点に十分に注意を払い、舞台に立って欲しいものである。
映美くららさんの場合はもっと大人っぽくなるのかなと思っていたが、
今までの延長であると言う印象を受けた。
ただし82年の麻実・くららコンビに比べると、
彩輝さんも麻実さんより若々しい印象を受けるので、
コンビとしてみれば全体的に若返った感じでバランスが取れていた。
映美さんの場合、芝居にしても歌にしてもダンスにしても、
特別に上手いと言う印象は無い。
勿論下手と言うわけではない。
言うなれば極平凡な生徒に過ぎないのかもしれないが、
舞台に立つと不思議に存在感があり、小さいながらも自己を主張している。
しかしその自己主張も決して男役を超えることは無いので、
男役の立場から見れば、非常にやり易い相手では無いだろうか。
娘役の場合、どんなに上手くても個性が強すぎてはトップにはなれない。
宝塚はあくまでも男役中心であるから、男役を超えてしまってはならないのだ。
映美くららは豪華な薔薇の花ではない。
たとえるならば菫の花が適当であろう。
それも園芸品種のパンジーではなく、野に咲くスミレの花である。
今回の作品では、観劇前はもっと大人の役を演じることを期待していた。
しかし観終わった後の印象では、敢て変る必要もないと思った。
むしろトップ娘役に就任した時の気持ちを持ち続け、
スミレの花として歩んで欲しいと思っている。
未沙のえるさん演じる作者の分身は、物語の進行上重要な役割を果たしているが、
プログラムによれば初演時の主キャストには入っていない。
再演時から登場した人物かどうかは不明だが、
当時としては目新しい演出であったかもしれないが、
今回の公演では現代風にアレンジして、もう少し使い方を工夫して欲しかった。
大空祐飛さんのタムロンは最も難しい役では無いかと思われるが、
そつなくこなしていたと思う。
ただし欲を言うならば、目付きはその時の状況に応じて変化させて欲しかった。
ちょっと上目遣いで猜疑心に満ちた目は上手く表現されていたのだが、
常時同じ目をしていたのでは心情の変化が乏しくなってしまう。
オースマンの北翔海莉さんは、
熱演はしていたのだが今ひとつ存在感に欠けていた。
宝塚の場合、主要な配役には特別な衣装を用意する場合が多い。
しかしこの舞台では主役も含めて同じ様な衣装で登場している。
衣装が目立てば必然的に存在感も増す場合が多いが、
今回のように同じ衣装でも存在感を出せるように努力して行って欲しい。
将来を有望されている人だけに、敢て厳しいことを要求する。
この公演は舞台がインドネシアとなっているので、
殆どの人がいわゆる「黒塗り」を行っていた。
しかし82年公演に比べるとその程度は低くなっているようであり、
これは好ましい傾向であると考える。
赤道に近い地方に暮らす人の肌が日本人より黒いのは確かであるが、
だからと言ってただ黒く塗って行けば良いと言うものではない。
宝塚は元来様式美と言うものを重要視している劇団である。
実情に近付けようと黒く塗って行くことよりも、
見た目に美しい表情となることを心掛けて欲しいものである。
大階段のない地方公演において、パレードがどうなるかはどうしても気になる。
82年公演ではくららさんがセリ上がってきたが、
セリのない会場では当然その手は使えない。
どのように修正されるか興味を持っていたのであるが、
結果は単に階段から降りるだけのもので、全くの期待外れであった。
短いとは言え階段から降りるのであれば、
やはり歌いながら降りてきて欲しいものである。
植田氏は初演時にこの作品を観て感動したそうであるが、
一体何に感動したのであろうか。
舞台を観る限りでは、アディナンに独立運動の指導者らしい行動は見られない。
かえって独立運動とは無縁の踊り子として登場させ、
独立運動に巻き込まれた悲劇として描いた方が面白かったのではないだろうか。
宝塚歌劇団に対する菊田氏の影響は大きいのかもしれないが、
神格化してしまっては進歩が無くなってしまう。
シェークスピア作品等はかなりアレンジして上演しているのだから、
今回の公演でももっと工夫して欲しかった。
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