観劇日が楽前と言うこともあり、作品としては完成されていたことと思う。にもかかわ
らず意外と印象が薄かったのは、2つの作品の位置付けが曖昧だったためではないかと思
う。一般的には芝居が主となっているのだが、今回の場合は海外公演の時のように2作並
列となっている。勿論その場合でもそれぞれが強い個性を発揮できれば良いのだが、どち
らも主役としては幾分か弱い作品であった。衣装・音楽に外部の人間を採用して話題を呼
んだが、やはりそれだけでは作品の質を高めることは出来ない。
「花の宝塚風土記」は海外公演を意識したような作品と言う印象を受けた。幕開けの扇
の踊りも、他の小道具を使うような工夫が欲しかった。日本物の芝居ではなく、日本物の
ショーなのだから、海外公演とは異なる演出にして欲しかったのである。芝居の「雪之丞
変化」では蛇の目傘が効果的に使われていたが、他にも面白い小道具はいくらでもあると
思う。マンネリ化は是非とも打破して欲しいものである。
第4場「花の絵姿」では、美々さんとオーケストラのボリュームが大きすぎた。もっと
音量を下げた方が、松本さんの踊りも引き立ったことと思われる。元々日本舞踊と言うも
のは、このような大きな劇場で見せるようには作られていないはずである。オーケストラ
は用いずに音楽は横笛(可能なら竹笛で)だけとし、美々さんもマイクは使わずに肉声で
歌う。この方がより幻想的で踊りも映えたことと思うのだが。
第5場「港に咲く花」ではくらら嬢の襟元の開き具合が気になった(和装に関しては素
人であるが、あれで開き過ぎていないのかな?)が、一応無難に着こなしていたと思う。
やはりくらら嬢には「若さの強み」があり、その若さが生かされた場面でもあった。
第6場からの「花の民謡集」では、テンポの速さが気になった。確かに民謡でもテンポ
の速い曲もあるが、緩急織り交ぜて進めて行った方が良かったと思う。それにしても紫吹
さんの地元である八木節が出てこなかったのは、酒井氏の怠慢ではあるまいか。
第9場「石庭」では音楽が話題になっていたが、特別に個性的なものとは思えなかった。
既存の曲を用いても何ら変わりが無かったような気がする。
第10場以降は余り印象に残っていない。
シニョール・ドン・ファンは大黒柱の無い、2×4建築のような(こんな表現で分かっ
てくれる人いるかな?)印象を受けた。ドン・ファンを中心に話が進んで行くことは確か
なのだが、脇役がしっかりとした形を持って話を進めて行く印象が強かったためである。
ただし推理物としての評価は弱いと言わざるを得ない。ロドルフォを脅迫犯として推測す
るためのネタが、余りにも貧弱であるからだ。そう言えばジョゼッペの使っていたノート
パソコン、イタリアのホテルでは無線LANが使えるんですね!!!
話題の衣装に関しては、人並み以上にこの分野に疎いので評価は差し控える。が、くら
ら嬢の着ていた赤いワカメの衣装、あれは何を意味しているのだろう?
霧矢さんの代役を務めた北翔さんは無難にこなしていたが、やはり演技が軽い一面があ
るのは経験が浅いためであろうか。個々の演技はうまいと思うのだが、それぞれの場面に
応じた使い分けにもっと気を配る必要がある。
紫城さんは確実に娘役が板についてきたが、特にフィナーレ等を観ていると、その背の
高さが非常に目立つ。背の高さを生かした台本が出来れば良いのだが、男役中心の宝塚に
おいては難しいと言って良いだろう。彼女と組む男役は更に身長を必要とされるので、人
選も限られてしまう恐れがある。
この作品で一番気になったのは、階上での演技が非常に多かったことである。2階席の
後部座席になると、首が切れてしまって興醒めである。2階でもS席ならそんなことは無
いのだろうが、B席の客だって有料入場者なのである。演出家自身も2階席に座って自分
の目で確かめ、舞台の見え具合を確認するだけの熱意が欲しいものである。木村氏の作品
でも重要な場面で首が切れてしまったが、植田氏もまだまだ若さ故の怠慢であろうか。評
論家は1階席の中央付近で観ているのではないかと思うが、そうした人間の意見だけを反
映していたのでは進歩は無い。評論家を喜ばせるためではなく、観客を喜ばせるための舞
台作りにもっと励んでもらいたいものである。