今回は博多座公演に引き続いての公演なので、
どのように変更されているかに一番の興味があった。
しかし結論を先に述べてしまえば、
良い方向には行っているとは思えないと言うのが正直な感想である。
幕開きは良いとして、第二場は博多座よりも分かり難くなってしまった。
何やら人が殺されて犯人が捕まり、玄宗が即位を宣言する。
余程中国の歴史に詳しい人でなければ、
あるいはこの公演のために当時の歴史を調べたものでなければ、
何が起こったのか理解できないだろう。
毒殺を刺殺に変えるのは演出の効果を上げるために問題ないが、
玄宗の人物像を明らかにしておくためにも、もっと念入りに表現して欲しかった。
原作とされている井上靖の「楊貴妃伝」にも、
白居易の「長恨歌」にもこの場面は出てこない。
しかし楊貴妃は玄宗あっての『貴妃』であり、
玄宗を語らずして楊貴妃を語ることは出来ない。
井上氏の「楊貴妃伝」では玄宗はコケにされている感じだが、
これも玄宗の前半生が描かれていないためであると思われる。
同書の初版本は博多座公演の時には手に入らず、
その後再販本を入手して読んでみたのだが、はっきり言って面白くなかった。
理由の一つは、やはり玄宗が道化に徹したことにあると言って良い。
宝塚の舞台は言うまでも無く男役主体である。
にもかかわらずこの作品においては、
主役であるべき玄宗の存在感というものが希薄に感じられた。
これは玄宗が単なる権力者としか描かれておらず、
分別の浅い巷の人間と同じレベルになってしまったためではないだろうか。
やはり第二場では睿宗から帝位を譲られるまでの経緯を丁寧に描き、
その後賢臣に助けられての長期に亘る善政を描いてこそ、
楊貴妃との関係も生きてくるというものであろう。
単なるエロオヤジでは無いのだから。
他の登場人物では、李林甫の取り扱いが軽すぎた気がする。
李林甫は玄宗の政治を傾かせた張本人とも言うべき人物の一人であり、
傾国という点に関しては楊貴妃の上を行っていたと言うことも出来よう。
もし李林甫の前任者である韓休が宰相の座を保っていたならば、
仮に楊貴妃が見出されたとしても貴妃となることは無かったであろうし、
安禄山の反乱も起こらなかったであろう。
皇甫惟明と言う人物に関しては実態を知らないが、
物語の展開に影響する人物ではないので、
李林甫をもっと前面に押し出して話を進めた方が話に奥行きが出た筈である。
安禄山に関しては、実際と違っていても止むを得ないだろう。
もし史実通りに描いたとすれば、
余りにも宝塚の舞台からは遠ざかってしまうことになるだろうから。
しかし反乱を起こす経緯にいたっては、
楊貴妃から振られただけでは理由として弱過ぎる。
李林甫・楊国忠との対立をもっとはっきりとさせておくべきであったろう。
観客の殆どが知っているはずの話だから省略、と言うことでは?が幾つも残る。
楊貴妃の死に関しては、やはり死に至るまでの経緯が安直過ぎる。
この脚本では楊国忠及び楊一族が民衆から恨まれる理由が無い。
あえて言うならば十七場で3夫人が玄宗からの贈り物で喜んでいる場面だが、
これだけでは楊貴妃の死には繋がらない。
やはり何らかの形で楊国忠等が民衆や兵士に恨まれる理由を表現して欲しかった。
十八場では楊貴妃のために茘枝が献上されているが、幕前での演技でも良いから、
茘枝を運ぶための労力を表現しておくのも一つの手であろう。
話はちょっと芝居から離れるが、
果たして玄宗は国を傾けるほどの浪費をしていたのであろうか、と言う疑問を持っている。
楊一族にいくら贈り物をしたとしても、
それによって国費を著しく浪費してしまうとは到底思えない。
楊貴妃のために建てたと思われる華清宮にしても、
始皇帝の阿房宮に比べれば規模は小さいようだし、
四川から茘枝を運ぶ労力が大変だったとしても、
膨大な人力と金のかかる万里の長城や墳墓の構築に比べれば微々たる物である。
李林甫や高力士にしても善人であるとは言えないが、
民衆を窮地に追い込むような悪事は働いていない。
酒井氏がプログラムの中で『劇的な事件が少ない』と書いているが、
この点では当たっている。
最後の玄宗と楊貴妃の再会は宝塚版ならではであるが、
楊貴妃が玄宗に渡すかんざしはそのまま渡すのではなく、
やはり「長恨歌」に従って2つに分けるべきであろう。
片方を玄宗が持ち、もう片方を楊貴妃が持ってこそ、
『天にありては比翼の鳥とならん』状況となるからである。
兵士の服装は博多座と同じであったが、
時代が全く異なる『愛燃える』で使用した物をまた使うのはいただけない。
博多座の時にはプレビュー公演のようなものでもあり、
予算も限られているだろうから止むを得ないと思っていたのだが、
大劇場公演でも同じになるとは思わなかった。
娘役ファンとしてはそれ程のショックは無いのだが、
男役ファンの多くはがっかりしたのではないだろうか。
娘役の衣装は流石に華やかで、ショーとして観ても十分に楽しめるものだった。
と言うよりも、この作品は芝居として観るのではなく、
ストーリー性のあるショーとして観た方が良いのかもしれない。
丁度『ベルサイユのばら』と同じように・・・
ショーの方は2度目となると感激も薄れるようである。
人数が増えた分だけ豪華になっているのだろうが、
舞台も大きくなっているので迫力は変らないのかもしれない。
しかし2階席からでもブランコで降りてくる檀ちゃんが良く見えたので一安心、
もしかしたら東宝劇場の立見席でも見られるかもしれない、と言う希望が湧いてきた。
今回は博多で初演の作品を観てから大劇場観劇となったので、
やはり今までとは違った観方となってしまったようである。
博多座での評判は良かったものと思われるが、
演出家もそれで安心してしまったのだろうか、
大劇場での公演としては今ひとつ工夫に欠けていたように思われる。
東京公演では舞台の広さも考慮して、
再び迫力のある舞台にしてもらいたいものである。