戦艦「大和」の水中映像が影響しているのか、
新たに映画の製作が行なわれたり、旧海軍の艦艇に関する書物の発行が続いている。
しかし既に終戦から60年が経過し、旧海軍の様子を知る人も少なくなっている。
特に技術関係の情報に関しては残された資料が少なく、
当事者として計画・設計に携わった人は皆無の状態となり、
真相を知ることは殆ど不可能と言っても良い状態になってしまった。
資料不足が故に技術的な観点から当時の艦船のことを紹介するのは困難なことではあるが、
あまり見当外れな記事を載せられたのでは当事者も浮かばれないであろう。
最近甲標的に関する記事にそのようなものを見つけたのだが、
それは魚雷発射後の船体浮き上がりに関するものである。
隠密性を旨とする甲標的の船体が水面上に現れてしまうのだから、
初心者の多くはそんな潜水艦は欠陥品だと思ってしまうかもしれない。
しかし少し知識のある人間ならばそれが避けられない状態であることを理解していると思うし、
設計者も用兵者もそんなことは承知の上で計画を進めていたのである。
その記事によれば原因が設計の不備であるかのような書き方をしているのであるが、
読者が誤った記述を鵜呑みにしてしまうとすれば由々しき事態であると言えよう。
船体設計主任の片山有樹氏は別記事甲標的の中で述べているように、
軽量化のために非均厚鋼板の使用まで検討したほどの人である。
船体が飛び出すのを防げるような方法があれば、当然そんなことは設計に取り入れている。
この件に関して初めは同記事の追加記事として載せようと思ったのであるが、
より理解し易いように魚雷全般に関連させて書くことにした。
ただし私は魚雷の専門家ではないので、魚雷本体の技術的なことに関しては詳しくは知らない。
また対象とする魚雷は当時の無誘導魚雷に限定し、
発射母体と射法を中心に説明し、最後に甲標的の船体浮き上がりについて説明することとする。
魚雷も銃砲と同様目標と離れた地点から攻撃する兵器であるが、
飛び道具の射撃法には狙撃と公算射撃とがあることはご存知のことと思う。
魚雷は飛び道具とは言っても銃砲等の他の兵器とは異なり、
目標との速度差が極めて小さな兵器であることが特徴の一つである。
したがって銃砲のような狙撃は殆ど不可能であり、
至近距離に肉薄しての襲撃以外は公算射撃にならざるを得ないと言って良い。
ただし魚雷の場合には基本的に2次元平面での運動を考えればよいので、
その点では3次元空間で射撃諸元を計算しなければならない銃砲よりも楽である。
前大戦時の魚雷の発射母体としては水上艦・潜水艦・航空機が一般的なものであるが、
その射撃方法は各々異なっていると言ってよい。
以下それぞれの射撃方法について検討していくこととする。
水上艦の魚雷装備艦としては駆逐艦が代表的なものであるが、
旧海軍においては1艦当り8射線が最低限必要な数であったようである。
弾速の速い銃砲でも遠距離になると標的に到達するまでの時間が長くなるので、
照準は標的の予測未来位置に向かってなされる必要がある。
魚雷の場合には命中地点への到達に更に時間がかかることになり、40ktの
雷速で5000mの距離から発射しても、目標に到達するのは凡そ4分後になってしまう。
少し前の時代には水中発射管を装備した水上艦もあったが、
この時代の水上艦では魚雷は水面上から発射するようになっているので、
昼間の戦闘であれば余程視界が悪くない限り、魚雷の発射は敵方に知られてしまう。
魚雷の発射を知って一目散に逃げ出せば魚雷に追いつかれることはまず無いが、
それでは戦闘放棄になってしまうので通常はそのようなことは無い。
しかし魚雷の発射を確認すれば何らかの退避行動をとることは十分に予想されるので、
命中予測値点を中心にして広範囲に魚雷が進行するように射線を決定しておかなければならない。
言うなれば投網で魚を捕獲するように、
敵艦に魚雷の網を被せてしまおうと言うのが公算射撃の考えである。
魚雷は右図のように扇状になるよう発射されるが、
それぞれの針路は敵艦の予測未来位置がどの程度変わるかによって決定される。
魚雷は発射距離が遠くなるほど、そして雷速が遅いほど到達までの時間が長くなるので、
その間に進む敵艦の移動距離は大きくなる。
更に魚雷の到達時間が同じであっても敵艦が速いほど移動距離が大きくなるので、
予測位置の誤差をカバーするために扇を広げなければならない。
右図では赤い射線よりも黒の射線の方が広がっているが、
扇が広がると魚雷の密度が低下する様子が分かることと思う。
右図は8射線の場合であるが、
同じ範囲をカバーするのであれば魚雷の数が多いほど密度が増し、
命中する確率が増すのは言うまでも無いことである。
魚雷が少ない場合には接近して発射すれば扇の幅を狭めることが出来るが、
当然その場合には敵の反撃による被弾も覚悟しておかなければならない。
なお図では便宜上真横に発射しているが、
実際には命中予測位置に向かって発射することになる。
複数の駆逐艦や巡洋艦で魚雷攻撃を行なう場合、
艦隊としての全射線で巨大な網を被せる方法も考えられるが、
この場合には脱落艦があると網に穴が開くことになる。
各々の艦で個別に射線を設定すればその心配は無いが、
特定の目標に攻撃が集中してしまうと魚雷が無駄になってしまう可能性がある。
当初の漸減作戦で想定しているような艦隊決戦の前哨戦と、
実戦で頻繁に発生した咄嗟海戦の場合とでは全く状況が異なるので、
結局は状況に応じた適切な方法によると言うことになるだろう。
同じ水上艦であっても魚雷艇の場合には1艇当りの射線が少ないので、
駆逐艦の場合とは若干異なってくる。
隊を組んで攻撃する場合には十分な射線を確保出来るので、
前記同様扇状に網を被せる公算射撃が可能である。
しかし単独で攻撃する場合には多くても4射線なので、
駆逐艦等の場合よりも敵に接近して攻撃しなければ、
魚雷の密度が低くなって命中確率は大幅に低下してしまう。
2射線の場合にはもはや公算射撃は不可能なので、
回避の余地が無い地点まで肉薄して発射しなければならない。
当然相手が武装した艦船であれば激しい反撃を受けることになるが、
その被弾確率を減少させるために魚雷艇は小型で高速である必要がある。
なお魚雷が開発された当初は皆このように肉薄しての攻撃であり、
飛び道具と言うよりは白兵戦のような使われ方であったと見ることも出来よう。
航空機の場合には一部の例外を除いて魚雷は1本だけなので、
単機の場合にはやはり敵艦が回避不能な地点まで接近することが理想である。
編隊で攻撃する場合には公算射撃も可能であり、
魚雷艇よりも大幅に速度が速いので、たとえ射線は少なくても有効な攻撃が可能である。
潜水艦の場合にも基本的には上図に示すような公算射撃であるが、
その隠密性により水上艦よりもより敵に接近することが出来るので、
4〜6射線であっても効果的な雷撃が可能となる。
ただし隠密性の副作用として敵艦の情報を得る手段を殆ど潜望鏡に頼ることになるので、
水上艦に比べれば貧弱な情報を基に攻撃しなければならない。
さて問題の甲標的であるが、
単独での攻撃では2射線に過ぎないので公算射撃は不可能であり、
魚雷艇や航空機同様肉薄しての攻撃とならざるを得ない。
しかし甲標的の場合には運動性能も通信能力も両者に比べれば貧弱であるから、
編隊を組んでの攻撃は不可能である。
甲標的の当初の運用構想は艦隊決戦の前哨戦であり、
母艦から多数の甲標的を発進させて攻撃を行なうこととなっている。
しかし攻撃そのものは集団として組織的な攻撃を行なうのではなく、
個々の攻撃の集合であると言うことが出来よう。
潜水艦の場合には魚雷発射を知られることは少ないが、
甲標的の場合には魚雷を発射すると艦首が軽くなって水面上に飛び出してしまう。
当然魚雷を発射したであろうことは敵に知られてしまうが、
それから回避してもかわせないだけの近距離から発射すれば攻撃は成功となるのであり、
発射以前から存在を知られている航空機や魚雷艇よりも有利であると言えよう。
もちろんその存在を知られてしまえば敵の反撃を受けることになるが、
これは他の発射母体の場合でも同様なのである。
魚雷発射後に甲標的が水面上に飛び出してしまうのは、
船首の魚雷が無くなってアップトリムになってしまうためであり、
この傾向は一般の潜水艦でも見られる現象である。
大型の潜水艦の場合には魚雷との質量比が大きいので目立たないだけであり、
甲標的の場合には魚雷の占める重量が大きいので、
魚雷が無くなった場合のトリムと浮力バランスの変化が大きくなってしまうのである。
この現象は中・小型の潜水艦でも見られ、
魚雷発射前にはダウントリムである程度前進してから魚雷を発射したそうである。
もし発射時に中性浮力、
あるいは正浮力となる魚雷が装備されていれば船体の飛び出しを防ぐことは出来るが、
当時有した魚雷を装備している限り、設計の工夫によって解決出来る問題ではないのである。
尤も甲標的のように浅深度で正浮力の魚雷を発射した場合、
今度は魚雷自身が水面上に飛び出してしまう可能性があるが。
甲標的は水中から攻撃するが故に潜水艦と同様に見なされているようだが、
運用面から兵器として考えるならば潜水艦と言うよりも、
むしろ航空機に近いものと考えた方が妥当であろう。
即ち一般の潜水艦のように単独で長期行動をするようなことは無く、
通常は母艦に搭載されて必要な海域に運搬されてから発進し、
直接的な戦闘行動は僅かな時間に過ぎないのであるから。